武田信玄(たけだしんげん)というと、戦国最強ともいわれる武田軍を率いて、数々の戦をしたことから武力派のイメージが強いかもしれません。しかし、内政にも力を注いで領民から慕われていた一面も持ち合わせる武将といわれています。

この記事では、そんな武田信玄の人物像や残した功績、名言などを紹介していきます。

  • 武田信玄とは

    武田信玄(たけだしんげん)について紹介します

武田信玄(たけだしんげん)とは

武田信玄(たけだしんげん)は、1521年(大永元年)に甲斐国(現在の山梨県)で生まれた戦国武将です。

最強ともいわれた騎馬隊を率いた武田信玄は、織田信長も恐れるほどの武力を誇りました。天下統一を目指して上洛を見据えますが、病に倒れて志半ばで亡くなります。

もし武田信玄が病に倒れていなければ、日本の歴史は変わっていたのではないかと考える人も多くいるほどです。

武田信玄の本名

現在広く知られているのは「武田信玄」という名前ですが、こちらは本名ではありません。「信玄」という名前は、39歳のときに出家した際の法号です。

武田信玄の本名は「武田晴信」。幼名は太郎でしたが、元服したときに室町幕府第12代将軍・足利義晴から「晴」の字を賜り、「晴信」と名乗るようになりました。

内政にも尽力

武田信玄は武力だけではなく、内政にも政治的手腕を発揮します。「甲州法度次第(こうしゅうはっとのしだい)」という分国法を制定。検地や棟別調査を行い、優秀な家臣を各地の城将として配置するなど家臣団の増強を図りました。

また、甲斐の領地や甲府盆地には川の氾濫により利用できる耕地が少なく、年貢収入の期待が薄かったため、武田信玄は治水に注力することで、新田開発を積極的に行いました。ほかにも金山の開発をして、金貨を製造・流通させることで領民を潤わせたそうです。

上杉謙信との合戦

武田信玄というと、越後国(現在の新潟県)など北陸地方を支配していた上杉謙信とのライバル関係が頭に浮かぶ人も多いでしょう。武田信玄と上杉謙信は互いの領地に挟む信濃(現在の長野県)を巡って、1553~1564年(天文22~永禄7年)の11年もの間に5度も川中島で合戦を行いました。

この合戦においては、お互いに小競り合いはしても、激しい衝突は少なかったそうです。武田側に大きな被害が出たのは、1回目と4回目の合戦くらいだったといわれています。5度目の合戦では、衝突すらありませんでした。

その理由として、武田信玄は信濃を手に入れるために戦っていたのに対し、上杉謙信は自分の領地の越後を守るために戦っており、互いに戦う目的が違っていたからではないかという見解があります。

武田信玄が越後を攻めようとすれば上杉謙信も激しく抵抗をしますが、そうでない場合は必要以上には戦わなかったというわけです。

また、武田信玄と上杉謙信の間には友情に近い感情があったとも、上杉謙信は武田信玄を嫌っていたともいわれています。

少なくとも武田信玄は上杉謙信の人間性を評価していたとされており、武田信玄が亡くなる際には「困ったときは、上杉謙信を頼るように」と跡継ぎの武田勝頼に伝えたと、「甲陽軍鑑」に記録されているのです。

  • 武田信玄とは

    武田信玄は武力、内政ともに優れていた戦国武将です

武田信玄の生涯

大河ドラマにもなった武田信玄の人生とは、どのようなものだったのでしょうか。

父・武田信虎を追放して家督を相続

武田信玄は、1521年(大永元年)11月3日、甲斐の武田信虎の嫡男として生まれました。幼名は「太郎」です。

武田信玄は幼いころより学問、武術で優れていました。武士の心得が書かれた「庭訓往来」(ていきんおうらい)という書を幼い武田信玄は2~3日で覚えたそうです。それに驚いた教育係の僧侶が「孫氏」「三略」など中国の軍略書を教えたという逸話もあります。

父・武田信虎は賢い武田信玄のことをよく思っておらず、家督は弟・武田信繁に譲ろうとしたといわれています。しかし、21歳になった武田信玄は重臣を味方にして、家督を相続したのです。父・武田信虎は、娘婿の今川義元がいる駿河(現在の静岡県)へ追放されました。

戦国の世では親、兄弟を殺害して家督を奪うことも珍しくありませんでしたが、武田信玄は父も弟も殺害せずに家督の相続をしています。武田信玄は父を追放した後も、多額の生活費を送っていました。弟・武田信繁とも兄弟仲はよく、武田信繁は武田軍団の副将として武田信玄を補佐したそうです。

三国同盟で勢力を増す

家督を継いだ武田信玄は、妹が嫁入りしていた信濃の諏訪と父・武田信虎との関係が深かったことから、甲斐へ攻めてくることを恐れて、信濃の諏訪を攻めました。

そうして武田信玄は、1542年(天文11年)に諏訪を平定することに成功。続いて信濃へも侵攻していきますが、思惑どおりには進みませんでした。そのため、武田信玄は敵の城外に将兵の首を並べたり、敵方の女性や子どもを下女や下男に落としたりするなど、さまざまな心理戦を行います。

そのような武田信玄の凄惨な戦略は、北信濃で勢力を拡大していた村上義清を刺激してしまいます。その結果、1548年(天文17年)の「上田原の戦い」では、武田信玄が初の負け戦を経験するなど大きな被害が出ました。その後、村上氏との決着は1553年(天文22年)までかかります。

この苦戦がきっかけで、武田信玄は実戦の難しさが身に染みて、婚姻関係などがあった駿河の今川氏や相模を支配していた北条氏と協力関係を築きました。

そうして、甲斐・駿河・相模の三国で同盟を結び、武田信玄は一層勢力を増していくのです。

戦を重ねて勢力を拡大していく

武田信玄は三国で同盟を結んだ後も、領土拡大に励みます。

1568年(永禄11年)には、今川氏との同盟を反故にして駿河を占領しました。これは当時勢力を伸ばしていた徳川家康に領地を奪われてしまうくらいなら、身内に奪われるほうがいいだろうと、武田信玄なりの考えがあったといわれています。

しかし、武田信玄の駿河侵攻がきっかけで、今川氏、徳川氏、北条氏と敵対し、武田包囲網が築かれつつありました。そこで武田信玄は北条氏の小田原城などを攻め、北条軍を駿河から撤退させます。再度、駿河を占領した武田信玄は、1571年(元亀2年)に北条氏と和睦し、再び同盟を結びました。

打倒織田信長を掲げて上洛を目指すも病に倒れる

1571年(元亀2年)、室町幕府15代将軍・足利義昭と上洛した織田信長との対立が深刻になっていきます。武田信玄は打倒織田信長を掲げ上洛を目指し、織田側の徳川家康が持つ三河(現在の現在の愛知県東半部)と遠江(現在の静岡県西部)に侵攻を開始しました。

1572年(元亀3年)、武田信玄は「三方ヶ原の戦い」で徳川軍を破り、織田信長の尾張(愛知県西部)も目前でしたが、武田信玄は喀血などの持病が悪化していきます。武田軍は甲斐への撤退を決めますが、1573年(元亀4年)4月、武田信玄はその帰路で死去。享年53歳でした。

  • 大河ドラマにもなった、武田信玄の生涯

    武田信玄は天下統一の志半ばで病に倒れてしまいました

武田信玄にまつわるエピソード

ここでは武田信玄の築いた城や家紋、名言などを紹介します。

武田信玄は城を持たなかった?

「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、あだは敵なり」とは武田信玄が残した言葉です。これが影響して武田信玄は城を持たなかったと誤解してしまう人もいますが、武田信玄は自ら築城した城や、侵攻して奪った城を持っていました。

武田信玄の居城は、現在の山梨県甲府市古府中にある武田神社の躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)や、避難先として築城された要害山城(ようがいさんじょう)、攻め落として自分の城とした信濃の高遠城(たかとおじょう)などがあります。

武田家の家紋

武田信玄の家紋は、菱の葉のような菱紋を4つ並べた形をした「武田菱」(たけだびし)、別名「四割菱」(よつわりびし)を使用していました。

この家紋は、武田氏の祖でもある甲斐源氏の宗家、その父・源頼義が戦勝祈願をした神社で授けられた鎧が由来とされています。この武田菱は武田信玄のみならず、武田家で代々使われていました。

武田信玄が軍旗「風林火山」

「風林火山」は、武田信玄の有名な軍旗の呼び名です。

「風林火山」は、「孫子」の句である「疾(はや)きこと風の如く、徐(しず)かなること林の如く、侵(おか)し掠(かす)めること火の如く、動かざること山の如し」を略称したものになっています。

武田信玄の名言

・自分のしたいことより、嫌なことを先にせよ。この心構えさえあれば、道の途中で挫折したり、身を滅ぼしたりするようなことはないはずだ

・人にとって学問とは、木に枝葉があるようなものである

・人は城、人は石垣、人は堀

これらの武田信玄の言葉は、現代における人との向き合い方や生き方に迷ったときに、道標になるような名言ではないでしょうか。この言葉からは、武田信玄の人間性も垣間見ることができるでしょう。

  • 武田信玄の城、家紋、名言など

    武田信玄の名言は現代においても為になる言葉です

武田信玄は戦のみならず内政にも尽力した武将

武田信玄は戦上手なイメージが強いですが、内政にも尽力した戦国大名です。勇敢なだけでなく、人としての優しさや慎重さなど繊細な面も持ち合わせていました。

また武田信玄の名言は、現代を生きる私たちにも参考になる言葉も多くあることでしょう。