この記事では、豊臣秀吉がしたことや生涯はもちろん、豊臣秀吉の人柄を表すエピソードに死因、築いたお城、妻子、家紋まで、簡単に、わかりやすく解説します。歴史に名を残す偉人について学びたいという人は、ぜひご一読ください。

  • 豊臣秀吉とはどんな人物? 生没年や身長は

    豊臣秀吉は織田信長の死後に天下統一をした人物です

豊臣秀吉とは? 生涯と天下統一までの流れ

豊臣秀吉(とよとみひでよし)は、農民から成り上がり、織田信長の死後に天下統一をした人物です。

出自について - 農民(百姓)の子として生まれ育つ

豊臣秀吉は、1537年(天文6年)に農民の子として生まれます。父・木下弥右衛門は、尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市付近)の農民で、織田信秀の足軽であり、母もまた愛知郡郡曾根村の農民の娘・なか(のちの大政所)でした。

豊臣秀吉の幼少時の名前は「日吉丸」とされる説があり、その顔立ちから「猿」「小猿」などと呼ばれていたそうです。

織田信長に仕え始める

豊臣秀吉が7歳の時に父が病死し、母は織田信秀の茶同朋筑阿弥(ちゃどうぼうちくあみ)と再婚しました。豊臣秀吉も養父のもとで過ごしていた時期もありましたが、武家奉公のため1550年(天文19年)に家を出て、侍になるために遠江国(現在の静岡県西部)に行ったとされています。

豊臣秀吉は遠江国の久能城主であった松平元綱に仕えたのち、1554年(天文23年)に尾張国(現在の愛知県西部の)清洲城主であった織田信長に、小者として仕えます。

妻・ねねと結婚

豊臣秀吉は1561年(永禄4年)に、ねね(のちの北政所)を妻として迎え「木下藤吉郎秀吉(きのしたとうきちろうひでよし)」と名乗るようになりました。

そして、1573年(天正元年)に12万石の大名となった頃、「羽柴藤吉郎秀吉(はしばとうきちろうひでよし)」と名を改めます。豊臣秀吉は徐々に織田信長に重用され、部将として各地に転戦しました。

中国攻めの指揮官として、播磨や但馬などを平定

織田信長により指揮官に任じられた豊臣秀吉は、1577年(天正5年)に、宇喜多氏・毛利氏らの勢力圏である中国地方の征伐を開始します。この中国征伐で播磨(はりま)や但馬(たじま)、因幡(いなば)などを平定していきます。

本能寺の変で織田信長に謀反を起こした、明智光秀を討つ

1582年(天正10年)に、主君である織田信長が、本能寺の変で明智光秀に討たれたました。豊臣秀吉は当時、中国地方を支配する毛利氏との戦中でしたが、即座に和平をとりまとめ姫路城に戻り、明智光秀を破って仇を取りました。

賤ケ岳の戦いや小牧・長久手の戦いなどで、柴田勝家・徳川家康との後継者争いを制す

その後、信長の重臣・柴田勝家を賤ケ岳(しずがたけ)の戦いを経て自害に追い込み、また小牧・長久手の戦いでは徳川家康・織田信雄(織田信長の次男)陣営に対し優位な形で和解を進めるなど、豊臣秀吉はその勢力を拡大していきます。

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関白・太政大臣となり、1590年に北条氏を破って名実ともに天下統一を果たす

豊臣秀吉は1585年(天正13年)に関白・従一位となり、身分制社会の頂点に立ちました。そして1586年(天正14年)12月、太政大臣(だじょうだいじん)になって豊臣の姓を賜り、「豊臣秀吉」と名乗るようになります。

また当時、関東で力を持ち、豊臣秀吉に抵抗していた小田原北条氏を1590年(天正18年)に破り、ついに天下統一を果たしました。

1592年(文禄元年)には国内統一の延長線上に朝鮮出兵を敢行するなど、海外にも目を向けていったのも豊臣秀吉の政策の特徴でした。

  • 豊臣秀吉の生涯

    豊臣秀吉は農民の子に生まれて天下人にまで出世しました

豊臣秀吉がしたこと、政策を簡単に解説

豊臣秀吉は関白や太閤になってから、さまざまな政策を実行したことでも知られています。

刀狩令(かたながりれい)で武士以外の武器所有を禁じる

当時の武将は、一向一揆などの戦いで苦戦することもよくありました。そこで豊臣秀吉は武士以外の農民や僧侶などから、刀・槍(やり)・鉄砲などの武器を取り上げます。

農民を、年貢米を納める人として土地にしばるとともに、全国にわたる刀狩令を出して、武器を取り上げていきました。しかし、害獣駆除の名目や祭器としての保管など、例外措置も設けられています。

刀狩(かたながり)は、武士と庶民の身分格差が進むきっかけにもなりました。

太閤検地(たいこうけんち)で貫高制から石高制に

太閤検地は、租税賦課の基となる条件を明確にするため1582年(天正10年)~1598年(慶長3年)に行われた検地で、天正の石直し(てんしょうのこくなおし)ともいいます。

豊臣秀吉が天下統一する前は、大名は税を負担する農民を自ら把握していませんでした。豊臣秀吉が全国統一した後、大名の手によって検地が行われ、土地の権利関係を整理します。

農民の登録と農耕地の測量を正確に行って検地帳に登録することで年貢の負担者を把握し、合理的に年貢を徴収できるようになりました。

この太閤検地では、今までの貫高制(かんだかせい)に代わって石高制(こくだかせい)が採用されました。貫高制とはある土地から徴収可能な年貢の量を貫文(銭)で表す方法ですが、面積に応じた年貢賦課が原則でした。石高制は、田畑の等級を上・中・下・下々に分け、土地の標準生産高を算定する方法です。

外交政策 - キリスト教禁止

外交政策としては、1587年(天正15年)、豊臣秀吉はキリスト教を禁止し、宣教師を国外へ追放します。その時に発令したのが「伴天連追放令(バテレンついほうれい)」です。この法は5カ条からなり、神国・仏教国の日本でキリスト教が流布されることは不適当であるという内容が記されています。

しかし、商人の渡航は禁止しておらず、ポルトガル船の来航は商売が目的として容認されていました。

外交政策 - 朝鮮出兵

豊臣秀吉は天下統一を実現した後、1592年(文禄元年)に大名らへ朝鮮出兵を命じます。しかし、徳川家康や前田利家らの家臣や、後陽成天皇などの反対に遭いました。豊臣秀吉は朝鮮の首都を陥落させるものの、その後はなかなかうまく進展しなかったようです。

朝鮮出兵はその後、豊臣秀吉の病死で撤兵命令が出されるまで、延々と続けられました。

  • 豊臣秀吉がしたこと

    豊臣秀吉は天下統一後もさまざまな政策を実施しています

豊臣秀吉の死因

豊臣秀吉は1598年(慶長3年)に伏見城(現在の京都市)にて62歳でこの世を去りました。豊臣秀吉の死因については諸説あり、脳梅毒や大腸がん、疫病、脚気(かっけ)などがあります。

豊臣秀吉の家紋

豊臣秀吉が木下藤吉郎を名乗っていた時代には、家紋として水草をかたどった「沢瀉紋(おもだかもん)」を用いていました。

そして、羽柴姓を名乗るようになってからは、桐(きり)を用いた家紋を使用しています。最初は五七の桐、次は五三の桐、太閤に就任してからは豊臣秀吉自らデザインした太閤桐を使っていました。

豊臣秀吉が築いた城 - 有名な大阪城から聚楽第、墨俣一夜城まで

豊臣秀吉が築いた城は、長浜城、大阪城、和歌山城、伏見城などたくさんあります。

有名な大阪城(大坂城)は、豊臣秀吉が大阪の石山本願寺跡に、1583年(天正11年)から3年を費やし、数万人の作業者を動員して築いた壮大な城です。天守閣は5層になっており、名古屋城・熊本城とともに三名城の一つとされています。

聚楽第(じゅらくだい・じゅらくてい)は、関白に就任した豊臣秀吉が、京都の大内裏跡に1587年(天正15年)に建てた邸宅です。豪華壮麗な造りで、翌年には後陽成天皇の行幸を仰ぎ、諸大名に威力を示したといわれています。

墨俣一夜城(すのまたいちやじょう)は、織田信長による美濃攻略の際に、軍事拠点として豊臣秀吉が一夜にして建てた城として知られています。これはあらかじめ別の場所で寸法通りに仕上げた部材を夜中に運び込み、素早く組み立てるという斬新なアイデアによって実現されたといわれています。

また北条氏の籠城する小田原城を攻撃する際に建てた、石垣山一夜城も豊臣秀吉の手によるものです。小田原城の近くの山にひそかに城を築き、完成後に周囲の木を切り倒すことで、ひと晩で出現したと見せかけ相手の戦意を奪ったといわれています。

豊臣秀吉の妻や子どもは?

豊臣秀吉の正室は前述のようにねねですが、ほかにも何人か側室がいました。浅井長政と、織田信長の妹であるお市の方の娘・淀殿(茶々)や、そのいとこ・京極竜子、織田信長の娘・三の丸殿、前田利家の娘・加賀殿、絶世の美女として有名だった甲斐姫などです。

淀殿との子・鶴松が早逝するなど実子にはなかなか恵まれず、何人か養子もいましたが、晩年、再度淀殿との間に実子・豊臣秀頼が生まれています。

なお当初、跡継ぎの実子がいなかったため、血縁による政権の維持を図ろうと甥(おい)の豊臣秀次を後継者と定めていた豊臣秀吉。しかし実子の豊臣秀頼が生まれたことなどが原因で、豊臣秀次を切腹させています。

豊臣秀吉は1598年(慶長3年)、自分に死期が迫っていることを悟ると、5大老(徳川家康・前田利家・毛利輝元・宇喜多秀家・上杉景勝)に豊臣秀頼の将来を頼む遺言状を残して62歳で亡くなります。

豊臣秀吉の性格や人柄を表す逸話・エピソード

豊臣秀吉にはその人となりを想像できるような、たくさんのエピソードが残されています。

豊臣秀吉の気配りにまつわるエピソード

豊臣秀吉が織田信長に重用されたのは、気配り上手だったことがきっかけだという逸話があります。

寒い夜に織田信長が下駄(げた)を履こうとした時に、下駄が温かくなっていたことがありました。 「誰か腰掛けていたのか」と織田信長にとがめられましたが、豊臣秀吉は「寒い夜なので、懐で下駄を温めておきました」と答えます。

豊臣秀吉のおなかには下駄の跡が残っていたことで織田信長は感心し、豊臣秀吉を目にかけるようになりました。

豊臣秀吉が親孝行であることを表す、母にまつわるエピソード

豊臣秀吉は出世してからも、親孝行であったことでも知られている人物です。

実母が病気になった時に、豊臣秀吉が伏見稲荷大明神に送った書状が今でも残っています。その内容は、母の病について「3年、いや2年、それでも駄目なら30日でもいいから命を永らえさせてほしい」と祈願するものでした。

母を思って仏にすがる豊臣秀吉の気持ちがわかるエピソードです。

豊臣秀吉の誠意を表すエピソード

豊臣秀吉が織田信長に仕えていた頃、敵の武将を味方に引き入るために話をつけて、織田信長のもとに連れてきたことがあります。

しかし織田信長は「心変わりしやすい者は切腹しろ」と命じます。豊臣秀吉が何とか命を助けられるよう進言しましたが、聞き入れてはもらえませんでした。

豊臣秀吉はその者に逃げるよう伝え、無事脱出させます。この件を伝え聞いた多くの人が、豊臣秀吉の配下になりたいと考えるようになったようです。

豊臣秀吉は身長が低かった? コンプレックスを表すエピソード

豊臣秀吉は身長が低かったと伝えられており、身長は140cm、体重は45kg程度であったという説もあります。

一方、側室の淀殿は、戦国時代の女性の平均身長が149cmといわれているのに対し168cm、65kgと大柄な女性であったといわれていました。

また、徳川家康が159cm程度であったと伝えられていることから、豊臣秀吉は周囲と比べてかなり身長が低かったと推測できます。

そんな豊臣秀吉は自らの肖像画を描かせる際に、背を高く、立派に見えるように画家に指示したという説もあります。

  • 豊臣秀吉のエピソード

    豊臣秀吉はたくさんの逸話が残る人物です

2023年の大河ドラマ『どうする家康』では、ムロツヨシさんが豊臣秀吉に

2023年1月8日よりNHKにて放送開始の大河ドラマ『どうする家康』は、国を失い、両親とも離れ離れになった一人の弱き少年・徳川家康が、ピンチや計算違い、ガマンの連続を乗り越え、乱世を終わらせる奇跡と希望の物語が描かれています。

波乱万丈な徳川家康の生涯を描く、スピード感あふれるエンターテインメントとなっており、主人公の徳川家康を演じるのは、人気アイドルグループ・嵐のメンバー松本潤さんです。

そしてそんな徳川家康の最大のライバルともいえる豊臣秀吉を演じるのが、ムロツヨシさん。底辺から大出世を遂げる胆力と頭の良さを持ち、そして巧みに人の心に入り込む人たらしな秀吉を、どう演じるのかに注目しましょう。

豊臣秀吉は農民から戦国武将となり天下を治めた、歴史上の偉人

豊臣秀吉は農民の子として生まれましたが、織田信長に仕え、気が利く一面から織田信長に目をかけられて徐々に出世していきました。

本能寺の変で織田信長が亡くなった後には天下人となり、刀狩や太閤検地などさまざまな政策を行ったことでも知られています。

また、豊臣秀吉は寒い夜に織田信長が履く下駄を温めておいたなど、さまざまなエピソードがある人物でもあります。大出世を果たした豊臣秀吉の数々の逸話には、今を生きる私たちにとっても学ぶことは多いでしょう。