西郷隆盛(さいごうたかもり)は、明治維新の立役者として大久保利通、木戸孝充とともに「維新の三傑」とよばれる存在です。

西郷隆盛の名前は知っていても、生い立ちや人物像までくわしく理解している人は少ないでしょう。

そこで本記事では、西郷隆盛は何をした人なのか、その功績や歩んだ人生、残した名言や子孫についてご紹介します。

  • 西郷隆盛とは

    西郷隆盛(さいごうたかもり)は明治維新の立役者として知られる人物です

西郷隆盛(さいごうたかもり)とは

西郷隆盛(さいごうたかもり)は、幕末期に現在の鹿児島県にあたる薩摩藩で生まれます。同じく鹿児島を故郷とする大久保利通とともに薩摩藩をリードして、倒幕運動の先頭に立ちました。

徳川幕府を倒し、明治新政府の成立に貢献したことから、幕末維新の象徴的な存在として多くの人に知られています。

西郷隆盛は写真が残っていない

明治維新前後に活躍した人物は写真が残っているケースが多いです。坂本龍馬や大久保利通などは何枚も写真が残っています。しかし、西郷隆盛は写真嫌いだったといわれており、1枚も自身の写真が残っていません。

その理由としては「西洋文明を嫌っていた」や、「忙しくて写真を撮影する時間がなかった」など、さまざまな説があります。なかでもよく語られるのが「顔が知られてしまうと、暗殺のリスクが高まるため、それを恐れていた」というものです。その徹底ぶりは明治天皇から写真を所望されても、決して献上しなかったほどだったといわれています。

西郷隆盛が亡くなってから6年後、イタリア出身の銅板画家・キヨッソーネが本人とは面識がないものの、顔の上半分を実弟の従道、下半分を従弟の大山巌をモデルにして描いた肖像画が一般的に知られている西郷隆盛の肖像画です。

こちらは西郷隆盛の特徴をよく捉えているといわれています。上野にある有名な西郷隆盛像の顔も、この肖像画を参考にされました。

西郷隆盛と犬

西郷隆盛は愛犬家としても知られており、多いときには20頭近くもの犬を飼育していたといわれています。当時の日本では犬を狩猟のともにする目的で飼育することはあっても、愛玩のために飼育する人は少数でした。

しかし、西郷隆盛は犬をペットとして飼育していたようで、うなぎ屋でこっそり犬にうなぎを食べさせた逸話などが残っています。

また現在でいうメタボ体型だった西郷隆盛は、ドイツ人医師による肥満治療を受けていたそうです。治療の一環として散歩を取り入れており、犬を一緒に連れて行っていました。当時、犬に散歩をさせる習慣がなかったため、珍しい光景として言い伝えられています。

西郷隆盛像はどこにある?

日本には西郷隆盛を称える目的で建立された銅像が3つ存在します。

上野恩賜公園の銅像

1つ目は、東京三大銅像のひとつにも数えられる上野恩賜公園にある銅像です。1889年(明治22年)に発布された大日本帝国憲法にともなう恩赦により、西郷隆盛の「逆徒」の汚名が晴れたことをきっかけに、建設計画が立ち上がりました。

西郷隆盛の死後21年が経った1898年(明治31年)に建立され、「上野の西郷さん」として親しまれています。西郷隆盛像は高村光雲氏によるもので、傍らの愛犬・ツンは後藤貞行氏によって作られました。

鹿児島市城山町の銅像

2つ目は、西郷隆盛の没後50年を記念して鹿児島市城山町に建立された銅像です。

鹿児島市出身の彫刻家で、渋谷駅の「忠犬ハチ公」の制作者としても知られる安藤照氏が8年の歳月かけて、1937年(昭和12年)に完成させました。城山を背景にするこの像は、陸軍大将の制服姿で仁王立ちする西郷隆盛が印象的といえます。

鹿児島空港近くにある西郷公園の銅像

3つ目は、鹿児島県霧島市の鹿児島空港そばにある西郷公園の銅像です。

正式名称は「現代を見つめる西郷隆盛像」といわれ、1977(昭和52年)の西郷隆盛没後100年を機に、古賀忠雄氏への発注で製作が開始されました。実在の人物像としては日本最大となる10.5メートルにもおよぶ立像であり、この公園、そして鹿児島を象徴する存在となっています。

  • 西郷隆盛とは

    西郷隆盛は愛犬家としても有名です

西郷隆盛の生涯

西郷隆盛といえば、明治維新の立役者として日本が近代国家へと生まれ変わるために尽力した人物。ここでは西郷隆盛が何をした人なのか、その生涯について紹介します。

薩摩藩の下級武士の長男として生まれる

西郷隆盛は、1827年(文政10年)12月7日、薩摩国鹿児島城下の下鍛冶屋町で吉兵衛という下級武士の家に生まれました。幼名は「小吉」です。

吉兵衛の子どもは長男の西郷隆盛を入れて全部で7人おり、妻や吉兵衛の両親、使用人を含めると総勢16人の大所帯でした。そのため、生活は極貧だったそうです。

西郷隆盛は幼少の頃より儒教を学び始めます。薩摩の「郷中」という武士の子弟教育システムに入った西郷隆盛は、3つ年下の幼馴染み・大久保利通らと学ぶなど、しっかりとした教育を受けていました。

郷中教育はほかの郷中と競い合うことも多く、それが原因で衝突することもあったそうです。西郷隆盛もほかの郷中に所属している少年との喧嘩で右腕を斬られてしまい、それが原因で刀を自由に操れなくなり、強い武士になる夢を諦めることになりました。

この出来事がきっかけで、西郷隆盛はより学問に励むようになっていきます。

薩摩藩の中心人物に

青年になった西郷隆盛は、1844年(弘化元年)に農政全般を担当する「郡方書役助」という役職に就きました。西郷隆盛は農政に関する意見書をたびたび藩に提出しており、それが藩主・島津斉彬(しまづなりあきら)の目に留まったことがきっかけで、側近に取り立てられ活躍します。

その後、島津斉彬は急死してしまい、西郷隆盛は絶望しますが、月照という僧に説かれて彼の意志を継ぎ、国事に邁進すると決意したのです。

1858年(安政5年)の安政の大獄で幕府を追われた月照とともに、西郷隆盛は海に身を投げますが、西郷隆盛のみ助かり、奄美大島に身を潜めることとなりました。その後、島津久光の下で力を得た大久保利通により、薩摩に戻りますが、西郷隆盛は島津久光の怒りを買い、沖永良部島に流されるなど辛い日々が続きます。

西郷隆盛が島に流された2年後、薩摩は生麦事件、薩英戦争など緊迫する情勢の中にありました。そんな中、罪を許されて薩摩に戻った西郷隆盛は、大久保利通とともに薩摩藩の中心人物へとなっていきます。

明治維新の立役者に

その後、時代は倒幕へと急速に傾いていきました。京都で起きた禁門の変などがきっかけで確執ができていた薩摩と長州は、坂本龍馬らの仲立ちで1866年(慶応2年)に薩長同盟を結びます。

西郷隆盛をはじめとする倒幕派により、1867年(慶応3年)に王政復古の大号令が発せられ、明治の新政府が発足。やがて新政府と旧幕府軍との間で戊辰戦争が始まりますが、西郷隆盛は勝海舟と会談をした結果、江戸の総攻撃は中止となります。

そして、1868年(慶応4年)に江戸城の新政府への引き渡し、いわゆる無血開城が行われました。

西南戦争で死亡

新政府への参加は断り続けていた西郷隆盛でしたが、大久保利通らの説得を受け入れて参加を決意。1871年(明治4年)に明治政府の参議となりますが、やがて政府内で意見が対立するようになり、西郷隆盛は1873年(明治6年)に参議を辞めて鹿児島に帰りました。

1877年(明治10年)、明治政府に不満を持つ士族による武力反乱により、西南戦争が起こります。政府軍に敗北した西郷隆盛は、自決して49年の生涯を終えました。

  • 西郷隆盛の人生

    西郷隆盛は激動の人生を歩みました

西郷隆盛にまつわるエピソード

ここでは西郷隆盛の子孫や体型、名言など、彼にまつわるエピソードを紹介します。

西郷隆盛の子孫

西郷隆盛の子孫には、自民党参議院議員を4期務め、第2次佐藤内閣で法務大臣を歴任した政治家の西郷吉之助がいます。西郷吉之助は西郷隆盛の長男・寅太郎の三男で、隆盛の孫です。

また、日本中央競馬会の騎手である武豊氏も遠縁の親戚にあたります。

西郷隆盛の長男・寅太郎の妻にあたるノブの父・園田実徳は、薩摩藩士で北海道の開拓に関わった実業家です。その弟・武彦七も函館に移住して馬術を学び、多くの弟子がいました。武彦七のひ孫にあたるのが武豊氏になります。

西郷隆盛の身長や体重

西郷隆盛は、現代でいうメタボ体型でした。残されている軍服のサイズから推測すると、西郷隆盛は身長178cm、体重108kgほどあったようです。太りはじめたのは沖永良部島で座敷牢に入れられていたときの運動不足が原因であるといわれています。

西郷隆盛の名言・座右の銘

西郷隆盛の言葉は、現在でも名言として残っています。

・世のすべての人からけなされても落ち込まず、すべての人から褒められてもうぬぼれるな

・世の中で、人からそしられたり誉められたりするといったことは、塵(ちり)のように儚く消え去ってしまうものである。

西郷隆盛の名言は、現代においても参考になる言葉ではないでしょうか。

また、西郷隆盛は座右の銘として「敬天愛人」を目標としていました。この言葉には「天を敬い、人に対して慈愛の心を持つ」といった意味があります。

身分や老若男女に関わらず分け隔てなく接して、多くの人に愛された西郷隆盛のまさに人物像を表す言葉といえるでしょう。

西郷隆盛の死因

西郷隆盛は西南戦争で籠もった鹿児島の城山で政府軍に包囲され、腰と腿に銃弾を受けます。その際に「もうここらでよか」を最後の言葉に別府晋介に首をはねさせました。明治新政府の発足の重要人物でありながら、明治政府との戦いで自決することになったのです。

  • 西郷隆盛のエピソード

    西郷隆盛の最後は悲劇的でもあります

西郷隆盛は激動の人生を歩んだ魅力的な人物

今記事では、西郷隆盛の人生や功績を振り返ってみました。男性も女性も魅了する人格を持ち主であったとされる西郷隆盛は、明治維新の最重要人物のひとりです。しかし、最後は明治政府と争って自決するという悲劇的な形で人生を終えています。

このような西郷隆盛という人物の生き方を知った上で、彼が語られている小説やドラマに触れると作品の捉え方も変わってくるのではないでしょうか。