――1年目でネタを見つけた後、そこからも長いわけですよね。

三島:劇場で出番をもらえるようになっていくのですが、このままいくとしんどいなってなるんです。あんまり劇場のお客さんは入れ替わりがないので、「またこれか!」みたいになるんだろうなと。

南條:狂言風○○でやっていくと、全部同じに見えるんですよね(笑)。当時はコントでやっていたのですが、飽きられてきて。劇場でのランクが上がったり下がったりして、このままだと頭打ちやなと。それが狂言風を始めて2年目、大阪時代の話です。

――どう現状を打破したのですか?

南條:その時に出ていた劇場は、芸歴8年目以上は出られず、卒業になったんです。それなら、このタイミングで東京へ行くかと三島が言い出して。確かにそうだろうと思い、東京に行く決意をしたという流れです。それが今思うといいきっかけになりました。

――居場所がなくなったという理由もあるかと思いますが、東京を選択した理由はほかにあるのでしょうか?

三島:テレビのオーディションが多いだろうという理由だけですね。大阪時代も始めたての頃に、ちょこちょこと深夜の関西ローカルのオーディションに受かる感じにはなっていたんです。けっこう奇抜だったので。これやったら東京のほうがずっといいだろうなと。

南條:俗に僕らはイロモンという感じのもので、劇場に毎日立って漫才してお客さんを喜ばせているというよりは、余興とか飛び道具的な呼ばれ方が多いんです。深夜番組の1分ネタなど、そういう呼ばれ方が多かった。東京ではその幅が広がりそうだなと。それが2014年の5月くらいですね。

――ただ、ちょうどその頃、『M-1』がない時期でした。お二人がブレイクするきっかけは2019年大会ですので、5年後ということに。

南條:そうですね。『M-1』は当時1回終わっていて、『THE MANZAI』の時代で。でも、『THE MANZAI』にもエントリーしていました。

――東京生活はどう始まりましたか?

南條:東京は最初、調子良かったんですよ(笑)。最初は狂言風や伝統芸能風のインパクトを気に入って喜んでもらえて、ちょっと変わったネタというくくりでちょこちょことテレビに呼んでもらっていて、最初の1~2年は東京出てきてよかったという状態が続きました。でも、大阪時代と同じで、それが一周すると「こいつらこの感じね」となる。あれだけ呼ばれていたのに、2016、17年はテレビの仕事はほぼない状態になり、これはやり方を変えないとダメだなと思いました。

――今でこそ狂言風ネタは、数学の問題を狂言風に解いてみるなど、種類が豊富ですよね。徐々にネタのストックを積み上げていったのですか?

三島:実は最初は、漫才じゃなかったんです。大阪時代はコントで、それこそ能みたいな。センターマイクを立てたのは、たぶん東京出てきてから。コントばかりで単独となるとで飽きちゃうので、漫才みたいなものを入れてみるかとなったのが2015年くらいで、見に来てくれた同期のななまがりの初瀬(悠太)が、漫才の形も見やすいなあと言っていて、それ以来やるようになりました。

南條:それで2人でいろいろと試してやってみて、狂言風に合うネタを探すんです。向き不向きは設定上あるんですけど、意外と何でもできるようになってきたと思います。昔ほど選り好みはしなくてもできるようになってきた感じはありますね。

――ブレイクするまでには転機がいくつもあったと思いますが、最大のそれは『M-1グランプリ2019』の決勝進出ですよね。

南條:僕らを一番押し上げてもらったのは、『M-1』でしょうね。世の中で波は立ってなかったけれど、僕らの中では相当なものでした。

三島:『M-1』がなければゼロなので。

南條:『M-1』は、僕らをゼロから1にしましたね。東京に出て来て大宮セブンというお笑いのユニットに入って、それで大宮の劇場に出入りするようになったのですが、漫才でお客さんをもっと喜ばせないといけない、そういう意識に変わりました。これが2017、18年です。

――なぜ大宮で意識が変わったのですか?

南條:そこまでお笑いに詳しい方というよりは、地元の方がフラッと来るようなイメージなんです。年齢層も高齢者からお子さんまでさまざま。そうすると狂言風のネタがなんだかわからず終わってしまうこともあるんです。そこを矯正できた場所ですね。大宮での経験がなければ、もっとねっとりしていたことをやり続けていたと思います。

――まるでマーケティングのようですね。

南條:そうですね。遠いところへ出て、ようやくネタの傾向がわかるんですよ。大阪、東京、大宮と、比べる素材が出てくるので。ルミネは殿堂感があり、みんな笑いに来てくれるから、かなり温かい人たちなんです。大宮の場合、そこまでお笑いに詳しい人ばかりではない。これがよかった。