五輪9日目(7月31日)、東京・国立競技場での陸上・女子100m障害で、「ママさんハードラー」寺田明日香が準決勝進出を果たした。これは、2000年シドニー五輪での金沢イボンヌ以来21年ぶりの快挙─。

決勝には進めなかった。それでも彼女の復活劇に観る者は熱い拍手を贈った。<挫けてもいい、逃げてもいい。それでも本気になってやり直せば夢は叶う>。寺田の生きざまが私たちを勇気づける!

■高校時代に才能が開花

「できるだけ前についていきたかったけど、アッという間に離されてしまいました。そのことは悔しい。でも目標を持って進んでいくことが、どれだけ大切で楽しいことかを(この数年で)実感できました。今日、この舞台で走れたのも多くの人に支えてもらったおかげです。感謝しています」
8月1日夜、国立競技場で行われた陸上競技・女子100m障害(ハードル)準決勝、寺田は6位(タイム13秒06)に終わり決勝進出はならなかった。だが、この種目での準決勝進出は、21年ぶりの快挙。
涙声、それでも表情に充実感を漂わせた。

寺田は、子どもの頃から陸上競技界で注目を浴びた。
『全国小学校陸上競技交流大会』で小学校5年時と6年時に、学年別100mでともに2位になっている。
ハードルを跳ぶようになったのは、北海道の恵庭北高校に入学してから。ここで才能を開花させ、100m障害でインターハイ(全国高校総合体育大会)3連覇を達成。3年時には100m、4×100mリレーも優勝し3冠に輝き、大会最優秀選手にも選ばれた。

卒業後は、高校陸上部の監督・中村宏之が指導にあたる「北海道ハイテクAC」に所属する。その年(2008年)の『日本選手権』で優勝し、その後、3連覇。09年にはベルリンで開催された『世界陸上』に出場、10年『アジア選手権』では銀メダルを獲得している。寺田の陸上競技人生は順風満帆、そしてさらなる飛躍が期待されていた。

■出産後、ラグビーを始める

だが、そんな彼女が極度の不振に陥った。度重なる怪我と病気に見舞われ、思うような走りができなくなってしまったのだ。
当時、「北海道ハイテクAC」には一人のスター選手がいた。女子100m、200mで日本記録を樹立、五輪3大会(08北京、12ロンドン、16リオ・デ・ジャネイロ)に出場した福島千里だ。
メディアが福島の取材に「北海道ハイテクAC」に押し寄せる。その陰で寺田は苦悩の日々を過ごした。コンディションは戻らず思うような走りができない、記録も伸びなかった。そして2013年初夏に現役引退を決断する。

寺田は、新たな人生を歩み始めた。
2013年に結婚し、ほぼ同時期に社会人としての新たなスキルを身につけようと早稲田大学人間科学部に入学。同年夏に女児を出産した。
家庭を持ち、ママになったのである。この頃の彼女は、アスリートに戻ることなど考えてもいなかっただろう。 しかし、日が経つにつれてモヤモヤ感が増幅していく。
「アスリートとして、もう一度勝負してみたい」との思いが消えなかったのだ。

そんな時に出逢ったのが、オリンピック競技になることが決まっていた「7人制ラグビー」。娘が2歳になった2016年8月にチームに加わり練習を始める。12月には日本代表のトライアウトに挑んで見事合格、圧倒的な走力を見込まれてのことだった。

翌年4月には公式戦に初出場しトライも決める。
だが、ラガーとしての充実感に満たされる中で悲劇が起こった。公式戦出場2試合目、相手チームの選手と交錯した際に右足腓骨骨折。入院、手術を余儀なくされ代表メンバーからも外される。 それでも寺田は、諦めなかった。約半年間のリハビリを経てフィールドに復帰する。

■「何でもやれるんだから」

復帰後、練習を続け試合に出る中で寺田は2つのことに気づくようになった。
ひとつは悲観的なこと。
(やはり怪我を恐れてプレイしている自分がいる。それに、長年ラグビー一筋にやってきている選手には感覚的な部分で、どうしても追いつけない。このまま続けてもチームに迷惑をかけるのではないか)
もう一つは、嬉しい発見。
(カラダのコンディション自体は良くなっている。20代の頃よりも速く走れているのではないか)

考えた末に、ラグビーを離れハードラーに戻ることを決める。本来、東京五輪が開催されるはずだった2020年夏まで2年を切った2018年秋のことだった。

以降の寺田の活躍は記憶に新しい。
2019年8月に、100m障害で13秒00の日本タイ記録をマークすると、翌月に12秒97の日本新記録を叩き出す。その後、自らの記録を2度塗り変え、念願の東京五輪出場を果たしたのだ。

思い出すことがある。
私は2011年の夏から秋にかけて「北海道ハイテクAC」を取材で幾度も訪れていた。 書籍『福島千里の走りを身につける!中村式走力アップトレーニング/中村宏之監修』(洋泉社)を編んでいたからだ。
当時、輝きを放っていた福島は颯爽とレーンを駆け抜けていた。片や寺田は、怪我の影響もあり思うような走りができない。練習場の別室に吊るされたレッドコードを使い、筋力トレーニングを静かに続けていた。
そんな彼女に撮影モデルを頼んだことがあった。
「全力では動けませんけど、軽く走るのなら大丈夫ですよ」
そう言って、快く引き受けてくれた。あの時、気持ちは沈み切っていたはずなのに。その後に寺田は「北海道ハイテクAC」を去る。

23歳で引退を決意した時は、絶望を味わったことだろう。
だが、その選択が結果的に正しかった。多くの人と出逢い刺激を受け、経験のなかったコンタクトスポーツ(ラグビー)にも挑み、心身をリフレッシュさせる中で彼女は肉体を甦らせた、いや、進化させたのだから。

「苦しかったら挫けても逃げても大丈夫。その後も人生は続くよ、何でもやれるんだから」
五輪の舞台で走り終えた後の寺田の表情は、みんなにそう伝えているように見えた。

文/近藤隆夫