2215試合連続出場の大記録を樹立した「鉄人」衣笠祥雄はカープ一筋23年、豪快なフルスイングで通算打率2割7分、504本塁打、1448打点の成績を残した。チーム史、いや球史に名を刻む大打者だ。

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しかし、そんな彼も入団から数年は思うような活躍ができず悩み続けたという。鉄人は、いかにして打撃力を磨いていったのか?そこには、ひとりの情熱的な指導者との出会いがあった。「1970夜間の素振り特訓」─。

■「よし!」と言われるまで

「私はドラフト制度のない最後の世代。だからスカウトしてもらえれば、どこのチームでも入ることができたんです。有難いことに複数の球団から声をかけてもらいました。
そんな時、未熟な高校生ながら考えたんです。どのチームに入れば試合に出られるのかを。それでカープに入団することを決めました」
広島東洋カープに入団した経緯を衣笠はそう話し、続けた。

「でも、入団し練習に参加してすぐに自分の考えの甘さに気づかされました。失望しました。それはカープを選んだことにではなく、プロを目指したことに対してです。プロのレベルは想像以上に高く、すぐにクビになると思いました」

衣笠は、ルーキーシーズンから1軍に昇格している。だが、出場したのは僅か28試合、7安打しか打てず打率も2割に届いていない。ほとんどが2軍暮らしだった。入団時はキャッチャーだったが、その後に内野手(主に一塁手)へ転向している。
2年目、3年目も1軍と2軍を往復。4年目からは1軍に定着しスタメンに名を連ねる機会が増えたが、大した成績は残せていない。

「クビにならずに生き抜いて、その後、レギュラーとして試合に出られるようになりました。でも実力で勝ち取ったものではなかったですね。当時は(一塁手に)興津立雄さん、藤井弘さんがいらっしゃって力的には2人の先輩の方が上でした。
でもチームが世代交代を目指していた。だから試合に出してもらえたんだと思います。なのにチームに貢献する活躍ができない。かなり悩みましたよ。そんな私を一気に成長させてくれたのが関根潤三さんでした」

広島カープは1970年代前半まで、下位に低迷し続けるセ・リーグのお荷物球団だった。 そんなチームを「5年計画」で改革すべく、70年前後に選手育成の手腕に定評のある指導者が集められる。
根本陸夫、広岡達朗、小森光生、関根潤三らだ。

衣笠は、当時をこう振り返っていた。
「関根さんが来られたのは1970年、私の6年目のシーズンで合宿所に住み込んでバッティング指導をしてくれました。
何人かの選手が呼ばれて、みんなで(午後)11時から素振りをするんです。それを関根さんが順番にチェックしていく。私と同じ年で入団2年目の山本浩司(のちに浩二)、水沼四郎、歳下の水谷実雄、三村敏之らも一緒でした。
試合がある日もない日も関係なく毎日です。30分で終わる日もあれば、1時間以上バットを振り続けることもある。関根さんが『よし!』と言うまでやりました」

■「キヌ、やろうか」

そんな夏のある日、衣笠は関根の指導をすっぽかした。
3試合ほど打てずイライラしていた彼は、球場からそのまま繁華街に繰り出したのだ。スッカリ呑んで午前3時頃に合宿所に帰った。すると消えているはずの玄関のライトが灯いたままになっている。覗き込むと関根が目を見開いてロビーの椅子に座っていた。

(まずい! 怒られる)
焦った衣笠だが逃げ出すわけにもいかない。覚悟を決めてドアを開けた。
すると意外にもソフトな表情のままで関根は言った。
「キヌ、やろうか」
それから衣笠はバットを振った。

「怖かったですよ、あの時は。アルコールが入って握力が落ちている。目の前に関根さんがいるのに、もしバットが手から離れたらと思うと汗をびっしょりかきました。30分以上バットを振り続け『よし!』と言われた後に床に倒れ込みましたよ」

そんな衣笠に関根は言った。
「キヌ、決めたことはやってから遊びに行けよな」
以降、衣笠が関根の指導をさぼることは一度もなかった。

「ヤクルトでの監督時代、解説者時代しか知らない人は信じられないかもしれませんが、関根さんは厳しく怖い方でした。いっぱい叱られ、罵られました。でも、そのおかげで私はバッティングの基礎を作ることができました。あの年にトコトンまでバットを振り抜いたことが、以降の私の成績につながったんです。関根さんには感謝しかありません」

厳しい指導の下での「夜間素振り特訓」の効果は翌年に表れた。
1971年シーズン、衣笠は4番に定着。130試合フル出場を果たし打率.285、本塁打27、打点82の成績を残す。3部門すべてにおいて自己最高。この年の首位打者はセ・リーグで唯一3割をマークした長嶋茂雄。衣笠の打率は、それに次ぐものだった。以降、カープの中軸打者として、前人未到の連続試合出場記録を打ち立てていくのである。

「実際に関根さんから指導を受けたのは1年だけなんです。70年のシーズン限りで退団されましたから。でも、その後もずっと私の中に関根さんがいました。打てなくなると、あの素振り練習を思い出しました。『大切なのは1にも2にも基本』と言われながらバットを振り続けたことを。そうすると落ち着いて打席に立つことができた。関根さんは、悩んだ時に帰るべき場所も私に与えてくれたんです」
衣笠は、そうも話していた。

「鉄人」のフルスイング。
それは、昨年4月、93歳で他界した情熱的な指導者の教えによって育まれ、支えられていたのである─。

<『「世界記録なんて大したことじゃない」衣笠祥雄が現役時代、最高に歓喜した瞬間とは?』に続く>

文/近藤隆夫