この軽便鉄道の歴史にも少し触れておくと、箱根と同様、当初の鉄道(省線)の経路から外れた熱海の人々は、国府津~小田原~箱根間に馬車鉄道が開設されると、小田原~熱海間の鉄道敷設を熱望するようになった。そして、小田原~熱海間に最初に敷設されたのは、レール上の箱形の車を車夫が押す「人車鉄道」というものだった。会社名は「豆相人車鉄道」といい、小田原~熱海間が全通したのは1896(明治29)年3月のことである。

しかし、いくらなんでも人力の鉄道では効率が悪かったので、蒸気への動力変更が検討され、1908(明治41)年8月から軽便鉄道による営業が開始された。この間、1906(明治39)年に会社名を「熱海鉄道」に変更し、次いで1908(明治41)年には、新たに設立された大日本軌道の小田原支社に改組。1923(大正12)年の関東大震災による壊滅的打撃を受け、翌1924(大正13)年に全線廃止されるまで運行された。

  • 故・小暮次郎氏が描いた軽便鉄道の小田原駅(左手前)。右奥には国道を走る路面電車が描かれている(提供 : 片野昭幸氏)

  • 故・小暮次郎氏が描いた軽便鉄道の小田原駅。国道側より(提供:片野昭幸氏)

  • 現在の軽便鉄道の小田原駅跡付近(国道側より筆者撮影)

この軽便鉄道の小田原駅がどんな様子だったかを知るには、早川口にある片野屋呉服店に立ち寄ると良い。店内で「豆相人車鉄道 夢物語館」という写真展示が行われており、その中に小田原の画家、故・小暮次郎氏が描いた軽便鉄道の駅の絵がある。この絵には国道を走る路面電車と、軽便鉄道の駅(現在の歯科医院の位置)に停車中の客車を牽引する蒸気機関車が描かれている。軽便鉄道はここからまっすぐ南行して早川を渡り、ほぼ海沿いの経路をたどって熱海に向かっていた。なお、人車鉄道時代の路線図は小田原市のホームページに観光スポットの紹介として掲載されている。

■箱根板橋駅へ

廃線散策も終わりに近づいてきた。早川口交差点の先で東海道線と箱根登山鉄道のガード下をくぐると、右手に光円寺という寺院がある。境内にあるイチョウの巨木は、路面電車が走っていた当時からこのあたりの風景を見守り続けている。

  • 1956(昭和31)年4月の板橋見附交差点付近。光円寺のイチョウだけはいまも昔も変わらない(提供 : 小田原ゆかりの路面電車保存会)

  • 現在の板橋見附交差点付近(筆者撮影)

光円寺の少し先の板橋見附交差点で、東海道の旧道が右手へ分かれていくが、路面電車は当初、この旧道を少し走った後、専用軌道に入って箱根湯本方面へ向かっていた。新道(現・国道)側に路線変更されたのは、1935(昭和10)年の小田原~箱根湯本間の鉄道線開業に伴う、軌道線の板橋~湯本間廃止のタイミングである。

この路線変更について、箱根登山鉄道の社史には、「省線小田原駅前から(中略)光円寺前までの軌道線はそのまま残置し、新たに光円寺前から箱根板橋までの新国道上に連絡線を整備した」とある。具体的な経路を1954(昭和29)年の地図で確認すると、新道上を進んだ軌道線は、現在の箱根登山ハイヤー小田原営業所の敷地を通り、箱根板橋駅構内に到達していた。また、路面電車廃止直前の同駅の写真を見ると、改札を入ってすぐ右手に、簡素な屋根の付いた路面電車の乗降場所が設けられていた。

なお、『箱根登山鉄道125年のあゆみ』(生方良雄著)によれば、202号車は箱根板橋駅構内で木造車から半鋼製車に改造され、長崎に譲渡されたという。当時は駅構内に路面電車の車両検収庫もあったので、そこで改造作業が行われたのであろう。

さて、今回は箱根登山鉄道軌道線の廃線跡を散策した。半世紀以上前に、モータリゼーションの高まりとともに交通の邪魔者扱いされ、日本各地から姿を消した路面電車であるが、いまはまた、環境性(低公害・省エネ)の観点や高齢化社会に適合する交通手段として、その価値が見直されつつあることは周知の通りである。

ある保存会関係者は、「地元の自然エネルギー事業者と連携したLRT(ライトレール)の敷設など、今後、小田原の二次交通整備に向けた計画が浮上すれば、そのシンボルとして202号車を活用することも考えられる」と話す。LRTという新たな形で復活した路面電車が走り、202号車が見守る。そんな光景がいつの日か見られることを楽しみに待ちたい。