■寺山修司『毛皮のマリー』を連想

さてここからは演劇好きの演劇に寄ったレビュー。「三百年の子守唄」のレビューで、 本多忠勝を演じる蜻蛉切に物吉貞宗が「別の存在なんです」「なろうと思わなくていんです」「忠勝さまへの思いを戦にぶつければいいんです」と助言するセリフが演技論のようだと書いた私は、「つはものどもがゆめのあと」もさらに物語のなかに演技論が塗り込められているように感じた。小狐丸の「あどうつ聲」では「打つ」という言葉に関連する言葉をあげていくなかのひとつに「打つのは芝居」とある。「阿津賀志山異聞」で岩融が歌った「名残月」を聞いた三日月宗近が、岩融には「苦悩」があるが、今剣には「憧憬」や「思慕」が感じられるというのも、同じ歌やセリフでも歌ったり演じたりする人によって違うものになるということ。岩融と今剣は義経と弁慶の名場面を演じて再現しようと稽古に励んでいて「勧進帳」も演じようとするが、これこそ「演技」を演じる芝居である。「勧進帳」のネタバレになるが、義経と弁慶が敵の眼を避けて逃げていく際、関所で怪しまれ、弁慶は勧進帳を読み上げるふりをする(赤塚不二夫のお葬式のときのタモリの弔辞の元ネタ)。なんとか誤魔化せたと思ったら、身分を隠した義経が義経に似てると呼び止められてしまい、弁慶はおまえのせいでこんなことになったと泣く泣く主人を激しく打つことで難を逃れる。麗しい主従関係の物語なのである。

この芝居は登場人物、みんなが「やさしい」と言う三日月宗近。誰かを思って芝居を打つことの尊さ。刀剣男士も自分のアイデンティティーがわからない不安を隠し、互いを慮っている。空で光る三日月がその大半を闇に姿を隠すかのように、何もかも背負おうとして何も語らない三日月宗近に代わって髭切が三日月宗近を演じるという体(てい)で語る。あれこれと「演じる」尽くし。

ラスト、義経と弁慶が客席からはけていくとき「これからは逃げて逃げて逃げ続けてーー」というセリフがある。これで思い出したのは「役者はただ、じぶんの役柄に化けるだけ。これはお化け。化けて化けてとことんまで化けぬいて、お墓の中で一人で拍手喝采をきくんだ……」という寺山修司『毛皮のマリー』のセリフだった。人の数だけ真実があり、記憶がある。たとえ歴史上に存在していなくて物語のなかだけだとしてもそれを書いた人、読んだ人が、演じた人、その物語を信じた人がいるならば、それは間違いなく本物。演じるということはそういうことなのである。

ラストの歌「ゆめのあと」(一瞬、ギターのギューンって音が効果的)は「傷跡」「焼け跡」「夢の跡」と「跡」に関する言葉が並び、冒頭の「打つ」尽くしとつながっていて、脚本が凝りに凝っている。

第2部、オープニングのアンサンブルのダンスが1部の幽玄さを踏襲するかのようにふわりとしていて、その撮影の仕方も素敵だった。1部にも出てきた無数の鳥たちの映像が向きを変えて使用されていた。2部の階段はまっすぐな大階段になっていた。6振りの初登場の衣裳はスカートみたいな回るとふわっと広がるものでバレエを観ているみたいな印象を受けた。義経と弁慶の剣舞もかっこいい。あらゆる芸能リスペクトを感じる。ここでもはやお馴染み、待ってました!という感じのみんなの二の腕披露合戦がはじまる。中性的な今剣も、腕を出すと男性の腕だなーと思った。そして三日月宗近の脇と背中の美しさの大盤振る舞い。眼福でした。