「信念の人」、津田梅子が女子教育にかけた思い

このように津田梅子という人物は、社会で活躍できる女性を育てる場を作ることに生涯をかけました。そんな梅子の思いは一体どこから芽生えたものなのでしょうか。

  • 津田梅子の研究者でもある津田塾大学の高橋学長(津田塾大学提供)

    津田梅子の研究者でもある津田塾大学の高橋学長(津田塾大学提供)

津田梅子の研究者でもある津田塾大学の高橋裕子学長は、「梅子は留学での経験を通して、アメリカと日本では女性の地位が違うことを実感し、日本でも女性が経済的に自立して生きていけるようにしたいと願っていました。社会でリーダーシップを発揮して働ける女性を育てなければならないと考えていたのです」と話します。梅子は広い視野を持ち、リーダーシップを持った、オールラウンドに活躍できる女性を育てることによって社会を変革したいと考えていました。

  • ブリンマー大学在学中、24~25歳ごろの梅子(津田塾大学提供)

    ブリンマー大学在学中、24~25歳ごろの梅子(津田塾大学提供)

そうした梅子のマインドが特に表れているのが、2度目のアメリカ留学時に設立した「奨学金制度」です。梅子は自分の後に続いて留学を希望する日本女性のために、自ら講演や募金活動を行って8000ドルの寄付金を集め、多くのアメリカ人支援者の力を借りて奨学金制度を構築しました。この制度によって、1890年代から1970年代まで、総勢25人もの日本女性がアメリカ留学を遂げたのです。

「梅子の大きな功績は、留学できる仕組みづくりをしたこと。実際にこの制度を使って留学した女性たちは帰国後、教育界を中心に幅広く活躍しています。梅子は自分に続く後進を育てることで、女性の地位向上を“点”ではなく“線”として達成していこうと見据えていました。これは日本女性の社会参画がいまだ課題となっている現代にも通じる思想だと言えると思います」と高橋学長は語ります。

  • 「女子英学塾」の校舎前庭にて、前列中央に津田梅子(津田塾大学提供)

    「女子英学塾」の校舎前庭にて、前列中央に津田梅子(津田塾大学提供)

また、梅子の人柄については「信念の人。梅子は留学から帰国した17歳で語っていた夢を、30代半ばで叶えました。周りの助けを借りながら、強い信念を持って女子教育の実現に向けて着実に努力したから、自らの夢を実現できたのです」と話していました。そんな強い気持ちを持った梅子だからこそ、女子教育の先駆者と呼ばれているのだと納得できます。

梅子を支えた人たちとそれに続いた後進たち

梅子の周囲にも目を向けてみましょう。

  • 開校時の協力者たち。左より、津田梅子、アリス・ベーコン、瓜生繁子、大山捨松(津田塾大学提供)

    開校時の協力者たち。左より、津田梅子、アリス・ベーコン、瓜生繁子、大山捨松(津田塾大学提供)

梅子は身近な人たちのさまざまな支援を受け、夢を実現できました。周囲の力なしでは語れない梅子の功績。周りの人たちは梅子のどこに魅力を感じ、支えとなったのでしょうか。

高橋学長は、「梅子が自己中心的ではなく、むしろ利他的であり、社会貢献を目指すビジョンを持っていたため、周りの人びとは力を貸したいと思ったのでしょう。他者を尊重する精神、そして広い視野を持っているところに心を打たれ、人が集まってきたのだと思います」と分析します。

特に初めての留学をともに経験した大山捨松と瓜生繁子とは、立場や環境が変わっても互いに助け合い、生涯を通してそのつながりは続きました。捨松は帰国後しばらくして結婚し家庭に入ってしまったため、ともに女子教育を実現させようと思っていた梅子は落ち込んだそうですが、2人は立場が変わっても、人として、女性として何かできることがないか追求し続け、捨松は梅子のことをずっと支援し続けました。

また、アメリカで梅子が交流していたアリス・ベーコンやアナ・ハーツホンは、女子英学塾の教師として来日して、梅子を支えました。アナについては、梅子が亡くなってからも塾に残り、ほぼ40年間無償で働き続け、さらに毎年寄付まで重ねたのだそうです。

高橋学長は、津田梅子の功績についてこう語っています。「梅子の功績は、120年前から女性教育を進めてきたパイオニアであることはもちろんそうです。ただ、それだけでなく学校が輩出した人たちがその評価をさらに押し上げている。卒業生たちは教育改革などにも尽力して、梅子の意志を継承し、さらに前進させていきました。梅子はその種をまき育てたというところで、最も評価されているのだと思います」。梅子の思いに賛同した支援者の力や、梅子が育てた人たちの活躍によって、その功績は確かなものになっているのです。