今年4月、2024年を目途に行われる紙幣の刷新を前に、お札の新しい顔が発表されました。一万円札は「渋沢栄一」、五千円札は「津田梅子」、そして千円札は「北里柴三郎」に。しかし、みなさんは3人のことをどれくらい知っていますか。今回は五千円札の新しい顔となる「津田梅子」について、津田塾大学(東京都小平市)を訪ね、その功績と信念について高橋学長に話を聞きました。
津田梅子って何をした人?
まずは、津田梅子の生涯についてご紹介したいと思います。
■6歳から11年間アメリカへ留学
津田梅子は1864年、現在の東京都新宿区に幕府外国奉行通弁などの仕事をしていた父親・仙と母親・初の次女として生まれました。父の仙は幕府の使節団に加わり、アメリカに渡った経験などから、女子教育の必要性を感じ、梅子を留学させることを決意。1871年、梅子は日本初の5人の女子留学生のひとりとして、最年少のわずか満6歳にして岩倉使節団(いわくらしせつだん)に加わり、アメリカへ渡りました。
ワシントンに着いた梅子は、日本弁務使館書記官だったチャールズ・ランマン夫妻の元で現地の初等・中等教育を受け、熱心に勉学に取り組みます。また、滞在中から同じ留学生だった永井繁子(後に瓜生繁子)と山川捨松(後に大山捨松)との間には固い絆が結ばれ、その縁は生涯続いていきます。キリスト教の洗礼も受け、11年という歳月をアメリカで過ごした梅子は、帰国する頃にはアメリカ女性のようになっていました。
■帰国後のとまどいと、女子教育への芽生え
17歳で帰国した梅子は、日本語や日本のマナーをほとんど忘れており、日々の生活に苦労します。それとともに、女子高等教育の必要性がまだ重視されておらず、女性のための働き口がほとんどなかった日本社会に大きなカルチャーショックを受けます。梅子は日本の女性の地位を高めなければという思いを募らせ、自分はそのために働きたいと考えるようになりました。
そして1885年、明治政府の最高実力者だった伊藤博文の勧めで華族女学校の教師となり、その後学校に在籍したまま再度アメリカへ留学。梅子はブリンマー大学で少人数制の質の高い教育を受け、水を得た魚のように勉学に励み、すばらしい成績をおさめました。アメリカに残って、生物学の研究を進める道もありましたが、梅子は女子高等教育のための学校を作りたいという思いを胸に、約3年間の留学を終えて日本に帰国します。
■津田塾大学の創立とそれを支えた同志たち
帰国後、女子高等師範学校の教授も兼ねていた梅子でしたが、1900年に学校の設立に向けて、華族女学校を辞職します。その際、いっしょに留学した捨松や、留学先のブリンマー大学の恩師や友人たちが寄付金集めに協力し、梅子の支えとなりました。
1900年、梅子はついに現在の東京都千代田区に私立女子高等教育における先駆的機関のひとつ、「女子英学塾」を創設。後述しますが、そこでは友人のアリス・ベーコンやアナ・ハーツホンなどが、教師としても力を貸してくれたのです。少人数制で厳しい教育を受けた教え子たちは、社会で広く活躍します。
その活躍を見届けた梅子は、1929年に64歳で逝去。女子英学塾はその後1948年に津田塾大学と名前を変え、梅子の思いを引き継いで現在も女子教育に力を注ぎ続けています。