■大師橋のたもとには渡し船の跡が

ホテルを出た後、上流に見える大師橋をめざし、多摩川の土手の上を歩く。大師橋は現・産業道路駅の新しい駅名にも採用される予定だ。

  • 大師橋のたもとにある公園には、旧大師橋の「親柱」が保存されている。大師橋から新しく「大師橋駅」となる産業道路駅までは数百メートルの距離

  • 地元では「六左衛門(ロクゼイモン)」の渡しとも呼ばれた羽田の渡し。少し上流に「大師の渡し」、さらに上流に「六郷の渡し」があった

大師橋のたもとには「羽田の渡し」跡の標柱が立っている。この渡し船は、江戸時代の末には川崎大師と穴守稲荷神社を行き交う参詣客で大変繁盛し、本街道(東海道)の「六郷の渡し」の客足が減って困った川崎宿が幕府に「羽田の渡し」の通行禁止を願い出たほどだったという。しかし1939(昭和14)年、大師橋が開通すると廃止された。

ここで疑問に思うのは、渡し船の名前にもなっている「羽田」という地名はいつ頃から存在したのかということだ。あまりにも空港にふさわしい地名であるため、空港ができた後に付けられたと考える人が多かったのではないかと思うが、そうではない。

江戸時代の文化・文政期(1804~1829年)に編纂された『新編武蔵風土記稿』に「羽田」の地名が見られるので、少なくともそれ以前から存在したことになる。一方、立川を軍用機専用の飛行場とするために、民間機用の「東京飛行場」が羽田に開港したのは1931(昭和6)年のことであり、空港のほうがずっと後にできた。

地名の由来については、もともと海老取川を挟んで2つの島になっており、海側から見ると鳥が翼を広げたように見えたという地形由来説をはじめ、諸説あるようだが、はっきりしたことはわからない。

■戦前の穴守稲荷はどこにあった?

大師橋を渡ると、すぐ左手に羽田の氏神として航空会社各社も参詣するという羽田神社がある。神社前の通りをさらに700mほど進むと、環八通りとの交差点に地下駅である京急空港線大鳥居駅の入口がある。

  • 大鳥居駅構内に掲げられている金属製のレリーフには、かつての駅周辺の様子が描かれている

ところで、駅付近を見る限り大きな鳥居が存在しないのに、なぜ「大鳥居」駅なのだろうか。その答えは駅構内に掲げられている金属製のレリーフを見ればわかる。大鳥居駅が開業したのは1902(明治35)年6月だが、「穴守稲荷神社から稲荷橋まで鳥居が連なっており、その最初の大きな鳥居が近くに有ったことが駅名の由来」になったという。

当時、穴守稲荷神社は風光明媚な景勝地であり、鉱泉も発見されるなどして大変なにぎわいを見せていたそうだ。「川崎大師の参拝をすませると、多摩川をはさんで対岸にあった穴守稲荷神社への参拝を兼ねて、遊びに行くという人が多かった」(『京急グループ110年史 最近の10年』京急電鉄編)という。当時の京浜電鉄はこうした参詣客を取り込むため、1902(明治35)年に穴守線(現・空港線)を開業させたのだ。

  • 1928(昭和3)年の穴守稲荷神社周辺の地形図。穴守駅の北側に穴守稲荷神社と門前町があった(川崎市中原図書館所蔵)

ちなみに、穴守稲荷神社は戦前まで、現在地とは海老取川を挟んだ対岸の、現在の羽田空港B滑走路の南端付近にあったという。戦後、GHQ(連合軍総司令部)が飛行場の拡張のため、海老取川東岸に存在した羽田鈴木町、羽田穴守町、羽田江戸見町という3つの町を強制退去・接収した際に神社も取り壊され、現在地へ移転した。

■街の変遷を見つめる羽田の大鳥居

穴守稲荷神社を参拝した後、最後は天空橋駅周辺を探索しよう。まずは駅の西側を流れる海老取川に着目。駅北側に架かる穴守橋と、駅の真西に架かる天空橋(人道橋)の間に、「稲荷橋」という赤い欄干の橋が架かっている。

  • 海老取川に架かる稲荷橋を西岸から撮影。東岸は行き止まりになっている

この稲荷橋は東岸側(駅側)が行き止まりになっており、いまは橋として機能していない。しかし、昭和初期の地図を見ると、この稲荷橋こそが穴守稲荷神社の参道として使われていたことがわかる。つまり、この橋の延長線上にある羽田空港の敷地内に、戦前まで穴守稲荷神社が鎮座していた場所があるのだ。

次は、海老取川沿いを南に進もう。多摩川との合流地点に近づくと、大きな赤い鳥居がポツンと立っているのが見えてくる。この大鳥居は「穴守稲荷神社が羽田穴守町にあった昭和初期に、その参道に寄付により建立された」(鳥居脇の説明板)そうだ。

GHQは神社を取り壊す際、この鳥居も取り壊そうとした。しかし、ロープで引きずり倒そうとしたところ、ロープが切れて作業員がケガをし、工事を再開すると工事責任者が病死するなど、変事が相次いだ。「穴守さまのたたり」という噂も流れたという。

  • 海老取川と多摩川の合流地点付近に立つ大鳥居は、羽田空港の敷地内から1999(平成11)年に移設された

結局、この鳥居だけは取り壊しを免れて、長い間、空港内旧ターミナル前の駐車場に残された。その後、「昭和59年に着手された東京国際空港沖合展開事業により、(中略)新B滑走路の整備の障害となることから、撤去を余儀なくされ」たが、「元住民だった多くの方々から大鳥居を残して欲しいとの声が日増しに強まり、平成11年2月、国と空港関連企業の協力の下で、現在地に移設された」(鳥居脇の説明板)という。

さて、空港沖合展開事業によって生じた天空橋駅周辺の「羽田空港跡地」も、今後の整備が進むことで、周辺の景色も大きく変貌を遂げることだろう。昔も今も、そして未来においても変わらずに街の様子を眺め続けているのは、海老取川の流れと羽田の大鳥居だけかもしれない。そんなことを考えながら、今回の散歩を終えた。

筆者プロフィール: 森川 孝郎(もりかわ たかお)

慶應義塾大学卒。IT企業に勤務し、政府系システムの開発等に携わった後、コラムニストに転身し、メディアへ旅行・観光、地域経済の動向などに関する記事を寄稿している。現在、大磯町観光協会理事、鎌倉ペンクラブ会員、温泉ソムリエ、オールアバウト公式国内旅行ガイド。テレビ、ラジオにも多数出演。鎌倉の観光情報は、自身で運営する「鎌倉紀行」で更新。