旧東海道であることを示す一里塚

さて、先へ進もう。三島広小路駅を出発した軌道線は旧東海道(県道145号線)へ進む。1963(昭和38)年の広小路商店街を写した写真の右手前に見える文房具屋は、建物は変わったものの、つい最近まで同じ店名で営業していたが、現在はコッペパン専門店に変わっている。

  • 1963(昭和38)年、三島広小路で撮影

三島広小路駅を出て最初の停車場だった木町(きまち)停車場付近には西本町というバス停が設置されている。その次の千貫樋(せんがんどい)停車場(現・千貫樋バス停)付近では、面白いものを見ることができる。

伊豆と駿河の国境を流れる境川に架かる境川橋から上流側を眺めると、なにやら橋のような工作物が見える。これが千貫樋で、戦国時代の1555(天文4)年に武田・今川・北條三家が同盟を結び、婚姻関係を持ったときに引き出物として造られた灌漑(かんがい)用水だという。江戸時代には三嶋大社とともに観光名所だったとのことだが、従来の木製の樋は関東大震災で倒壊し、鉄筋コンクリート製に造り替えられた。交差点から道をぐるっと回り込めば、千貫樋のすぐ近くまで行くことができる。

  • 千貫樋はすぐ近くで見ることができる

ちなみに芹澤氏によれば、昔は街道といっても境川を渡る部分は道路の起伏が激しかったため、木町停車場から川向こうにかけて軌道線は右手に大きく迂回し、一部では千貫樋と並ぶように電車線用の築堤上を走っていたという。1929(昭和4)年に道路のかさ上げ工事を行い、境川橋が架けられて以降、現在の道路上を走るようになった。

再び県道に戻って歩を進め、伏見停車場(現・伏見南バス停)を過ぎ、玉井寺(ぎょくせいじ)停車場(現・玉井寺前バス停)の近くで、この道が昔の東海道であったことを示す一里塚を見ることができる。一里塚は道の両側にあり、沼津方面に向かって右手が玉井寺一里塚、左手が宝池寺一里塚だが、玉井寺のものが昔の姿をそのまま残しているのに対し、宝池寺のものは1985(昭和60)年に改修を受けている。

一里塚のすぐ先の玉井寺前バス停のところで道幅が広がっている。ここが上下線の交換駅であった名残りだ。

黄瀬川を越えて

八幡停車場(現・八幡バス停)、長沢停車場(現・長沢バス停)、国立病院前停車場(現・医療センター入口バス停)を過ぎると、その先の八幡神社に歴史好き必見の面白いものがある。1180(治承4)年10月、富士川の戦いで平家軍を破った源頼朝の黄瀬川の陣中に、奥州から駆けつけた弟・義経がやって来た。このとき頼朝、義経の兄弟が対面した際に腰掛けたという「対面石」が神社境内にあるのだ。

  • 頼朝と義経の「対面石」

次の臼井産業前停車場(現・臼井国際産業前バス停)を過ぎると、いよいよ黄瀬川を渡ることになる。かつては延長65mの木造の黄瀬川橋が架かっていたが、1961(昭和36)年6月28日の洪水で流出してしまった。このため、軌道線は三島広小路~国立病院前間の折返し運転となり、沼津方面はバス代行運転が行われた。結局、軌道線が廃止されるまで折返し運転が続くことになった。

さて、黄瀬川を越えて200mほど行くと、左手に「光来堂」という菓子店があり、店舗前の道路がやや広くなっている。ここが2カ所目の交換駅だった黄瀬川停車場跡。ちなみに、光来堂の店内には、彩色された軌道線の写真が2点ほど展示されているので、菓子を食べながら一休みするのもおすすめだ。

  • 光来堂店内に展示されている軌道線の写真

店を出てさらに200mほど進むと、道は新道(県道380号・旧国道1号)と合流し、ここからしばらくは交通量の多い新道沿いを歩くことになる。石田停車場(現・下石田バス停)の次の麻糸前停車場(現・トーアスポーツ前バス停)は、軌道線の重要な駅だった。かつて付近に麻糸の織繊工場があったのが駅名の由来であり、朝夕、大勢の女工たちが電車を乗降りしていたという。

沼津城の城跡を行く

麻糸前停車場を超えた先で県道を離れ、狩野川の堤防沿いの細道に入っていけば、山王前停車場跡にたどり着く。3カ所目の交換駅で、昔は電車の車窓から狩野川の流れが見えたというが、狩野川の堤防の造り替え工事が行われるなどしたため、往時の面影が残っておらず、駅の場所も特定できない。芹澤氏は「一里塚のある小さな公園の脇道が、かつて軌道線から沼津日枝神社(山王宮)への参道だったので、おそらくそのあたりに駅があったのではないかと思います」と話す。

  • 1910(明治43)年頃の山王前付近

再び県道に合流して平町停車場(現・平町バス停)を過ぎ、国道414号を渡れば、いよいよ沼津駅も近くなり、ラストスパートだ。三枚橋停車場(現・三枚橋バス停)付近には、地名の由来となった小さな橋があるが、むしろ興味深いのは、その先にある川郭通りの「川郭(かわぐるわ)の由来」を示す説明板だ。

説明板に「『川郭』は『川曲輪』とも記し、狩野川に面した城郭に由来して名付けられたものと考えられる」とあるように、ここから先の沼津駅の南側一帯は、かつての沼津城の城跡なのだ。

この地は戦国時代、武田氏によって三枚橋城が築城されたが、江戸時代初期に廃城となり、その城跡に江戸時代中期に沼津城が完成する。現在、城の痕跡はほとんど残っていないが、中央公園内に「沼津城本丸址」の石碑があるほか、アゴラ沼津(静岡銀行沼津支店)前に、地下から発見された三枚橋城本丸入口付近の石垣の一部を復元したものがある。

  • 中央公園内の「沼津城本丸址」の石碑

大手町交差点を右折すれば大手町停車場(旧名・追手町停車場、現・大手町バス停)があるが、古地図を見る限り、沼津城の大手門は大手町交差点よりも南側にあったようだ。

沼津にはもうひとつの廃線跡も

さて、沼津駅に到着すれば伊豆箱根鉄道軌道線の廃線跡探索は終了だが、沼津にはもうひとつ、歩いてみたい廃線跡がある。

  • 蛇松線跡は緑道として整備され、一部には当時の線路が残されている

1887(明治20)年、東海道本線建設の資材運搬のため、沼津港に近い狩野川の河口付近から沼津停車場まで敷設された静岡県最古の鉄道「蛇松(じゃまつ)線」という貨物線の跡で、1974(昭和49)年まで現役の貨物線(国鉄沼津港線)として使われたこともあり、ほんの一部だが当時の線路が残されている。

沼津駅からバスで沼津港へ行き、きれいに整備された蛇松線廃線跡の緑道を歩いて沼津駅付近まで歩いて戻り、今回の旅を終えた。

筆者プロフィール: 森川 孝郎(もりかわ たかお)

慶應義塾大学卒。IT企業に勤務し、政府系システムの開発等に携わった後、コラムニストに転身し、メディアへ旅行・観光、地域経済の動向などに関する記事を寄稿している。現在、大磯町観光協会理事、鎌倉ペンクラブ会員、温泉ソムリエ、オールアバウト公式国内旅行ガイド。テレビ、ラジオにも多数出演。鎌倉の観光情報は、自身で運営する「鎌倉紀行」で更新。