「玉電」の愛称で親しまれた東急玉川線は、廃線からおよそ半世紀が経過した今もなお、そのかわいらしいフォルムなどから鉄道ファンや地元の人々の記憶に残り、愛され続けている。玉電は、2017年に開業から110周年をむかえ、2019年には廃止から50年が経過するが、現在その遺構はどの程度残されているのだろうか。玉電の廃線跡を探索する一日旅に出かけてみよう。

  • 国道246号道路踏切を通過中の砧線の車両(昭和43年11月7日撮影。提供: 東急電鉄)

    国道246号道路踏切を通過中の砧線の車両(昭和43年11月7日撮影。提供: 東急電鉄)

渋谷駅付近で在りし日の面影探し

玉電の歴史を概説すると、玉川電気鉄道によって玉川線(渋谷=玉川/現・二子玉川)が開通したのは、明治40(1907)年のことだ。天現寺線(渋谷=天現寺橋)、砧(きぬた)線(玉川=砧本村)、下高井戸線(三軒茶屋=下高井戸)、中目黒線(渋谷橋=中目黒)、溝ノ口線(玉川=溝ノ口/現・溝の口)の各支線を徐々に延長し、昭和4(1929)年には車両数も「66両を数えるに至った」(『ありし日の玉電』宮田道一、関田克孝著)という。

  • 渋谷駅付近を走行する玉電の車両。左に井の頭線、右に銀座線が見える(昭和44年3月撮影。提供: 東急電鉄)

    渋谷駅付近を走行する玉電の車両。左に井の頭線、右に銀座線が見える(昭和44年3月撮影。提供: 東急電鉄)

その後、昭和13(1938)年に玉川電鉄が東京横浜電鉄(後の東急電鉄)に合併され、戦後、昭和23(1948)年には天現寺線と中目黒線が東京都交通局に譲渡された。そして昭和44(1969)年に、首都高渋谷線の建設や地下を走る新線計画浮上などにより、下高井戸線が東急世田谷線として残ったのを除き、全線が廃止された。

今回は旧玉電の路線の内、渋谷から二子玉川を経由し砧本村まで、玉川線と砧線跡を歩くことにする。まずは、渋谷駅からスタートしよう。

玉電の渋谷駅は、当初は現在のハチ公口付近の地上にあり、省線(現・JR)山手線のガード下をくぐって、玉川方面の電車と天現寺・中目黒方面の電車が直通運転していた。2014年に東急百貨店東横店東館の解体工事中に「東横のれん街」の天井板をはがすと、「玉電が通っていた通路の遺構ではないか」(東急電鉄広報部)というアーチ型天井が現れ話題になった。残念ながら、このアーチ型天井は、東館の建物とともに取り壊されてしまった。

  • 東急百貨店東横店東館の解体工事中に発見された「アーチ型天井」(提供: 東急電鉄)

    東急百貨店東横店東館の解体工事中に発見された「アーチ型天井」(提供: 東急電鉄)

玉電の渋谷駅は昭和14(1939)年に、建設中の玉電ビル(現・東急百貨店東横店西館)の2階に移設される。地下鉄銀座線と帝都電鉄(現・京王)井の頭線に挟まれた位置で、現在の建物でいえば、西館から渋谷マークシティ方面への連絡通路を通じて、渋谷エクセルホテル東急付近へとホームが続いていた。ちなみに、このホームからは玉川行きと下高井戸行きの電車が発着していた。

一方、駅の2階移設により分断される形になった天現寺・中目黒方面の電車は、東京市電に運行が委託された。

さて、渋谷駅を出発した玉電は築堤上の専用軌道を登って道玄坂上へ抜け、現在の国道246号線に合流した。近年まで、その専用軌道跡はバス専用道路として名残をとどめていたが、渋谷マークシティの建設によりそれも取り壊され、残念ながら渋谷駅周辺では、玉電の遺構と呼べるようなものはほぼ全て消滅してしまった。

強いていえば、渋谷駅2階にあるJR線「玉川改札」が、かつて玉電(玉川線)乗り場への連絡口であったことを名前にとどめるくらいだ。

  • 渋谷駅周辺では「玉川改札」にその名残を残すのみ

    渋谷駅周辺では「玉川改札」にその名残を残すのみ

江ノ電から里帰りした"あの車両"は今……

渋谷から二子玉川まで全行程を歩くのはさすがに大変だが、玉電の路線跡は現在、その地下を走る東急田園都市線の路線とほぼ一致するので、電車も上手に使いながら廃線探索することにしよう。ちなみに、2000年8月6日に田園都市線に統合されるまでは、渋谷=二子玉川間は新玉川線という別の路線名が付与されていたが、もちろんこれは、かつての玉川線の名称を引き継いだものだ。

さて、渋谷駅から電車に乗り、まずは次の池尻大橋駅で下車しよう。駅から下り坂になっている国道246号を渋谷方面に少し戻ると、谷底にあたる部分に目黒川が流れており、周辺の地名の由来となった「大橋」が架かっている。

  • 大橋車庫(昭和43年11月14日撮影。提供: 東急電鉄)

    大橋車庫(昭和43年11月14日撮影。提供: 東急電鉄)

橋の大きさからすると、大橋という名前はいささか大げさな印象を受けるが、江戸時代はこの付近の川幅が今より広く、最初に架けられた橋は7間9尺(約15.45m)で、「当時としては大きな橋だった」と言われている。また、ここから渋谷方面へは急勾配の登り坂である「大坂」が続くが、「大坂の下にあった橋だから大橋になった」という説もあるようだ。

ところで、池尻大橋駅で降りたのは、付近にある首都高の大橋ジャンクションが、かつての玉電の車庫跡だからだ。玉電廃止後、大橋車庫跡は2002年まで東急バスの大橋営業所として使用され、2010年3月に大橋ジャンクションとして供用開始された。なお、大橋ジャンクションの上部は、「目黒天空庭園」という緑地として開放されており、周囲を一望できる気持ちのいい空間になっている。

  • 大橋ジャンクション上部の「目黒天空庭園」

    大橋ジャンクション上部の「目黒天空庭園」

再び電車に乗り、次の三軒茶屋駅で下車し、国道246号線と世田谷通り(都道3号)が分岐する三軒茶屋交差点に足を運んでみよう。かつて、この交差点上で玉川線と下高井戸線(現・東急世田谷線)が分岐していた。下の写真を見ると、現在はカラオケ店になっている場所に当時の協和銀行の建物が写っているが、その右手に向かっている電車が下高井戸線、左に見える電車が玉川線だ。

  • 三軒茶屋の交差点での玉電(昭和30年9月撮影。提供: 東急電鉄)

    三軒茶屋の交差点での玉電(昭和30年9月撮影。提供: 東急電鉄)

  • 昭和30年の写真とほぼ同じアングルから撮影した現在の三軒茶屋交差点

    昭和30年の写真とほぼ同じアングルから撮影した現在の三軒茶屋交差点

もし時間に余裕があれば、三軒茶屋駅から世田谷線に乗って宮の坂駅まで足を伸ばしてみよう。玉電廃止後の昭和45(1970)年に江ノ電に移籍し、その後、里帰りして保存されている車両(デハ80形、江ノ電では600形)に会うことができる。玉電で活躍した車両で、今も保存されているのはこの車両と、宮崎台の「電車とバスの博物館」に保存されているデハ200形のみとなっている。

  • 「電車とバスの博物館」に保存されているデハ200形

    「電車とバスの博物館」に保存されているデハ200形

駒沢大学駅から400mほど先の新町一丁目交差点で玉電跡は右方向に大きくカーブし、国道246号および首都高から離れる。頭上に首都高がないだけでも開放的だし、246号沿いと比べると町並みも落ち着いた雰囲気になる。ここから桜新町駅を経由して用賀駅までは、電車に乗らずに散歩してみることにしよう。