「世界で最も多くの航空会社に乗った」というギネス世界記録を持つ航空写真家・チャーリィ古庄氏。2014年にこの記録を樹立し、2018年現在も記録は破られていない。TV番組「マツコの知らない世界」(TBS系)では、「年間100回LCCに乗る飛行機男」として飛行機の世界を熱く語ることも。そんな古庄氏はどんな人なのだろうか。"ギネスまでの道のり"も含め、古庄氏の飛行機愛を語ってもらった。

  • 航空写真家・チャーリィ古庄氏にインタビュー(成田空港からも近い「フライトカフェ・チャーリイズ」にて)

    航空写真家・チャーリィ古庄氏にインタビュー(成田空港からも近い「フライトカフェ・チャーリイズ」にて)

小学生の時からひとりで羽田へ

松永: 「チャーリィさんは子どもの頃から飛行機が好きだったのでしょうか」

古庄氏: 「飛行機だけじゃなくて、車も電車も、乗りもの全般が好きだったんですよ。車も数台持っていて、外車ばっかり。ビジネスジェットも欲しいんですが、日本では無理ですね。アメリカに住んでいたら買いたい。日本で所有するにはバカじゃないかってぐらいお金がかかる。駐機代金だけをとっても高い。それに加えて、保険代、燃料代、検査代とか、日本では維持できない。アメリカ郊外であれば月1万円で駐機できるというのに。私が欲しい軽飛行機は中古で300万円ぐらいなので、車1台買うぐらいの感覚で乗れる。それで『週末、どこかに飯食いに行こうぜ』って言えたら最高ですよね」

松永: 「興味をもたれていたのは飛行機だけじゃなかったのですね。東京生まれとのことですが、チャーリィさんも羽田や成田に行っていたのでしょうか」

古庄氏: 「小5ぐらいにはひとりで羽田に行っていましたね。ただ好きで、ただの一マニアとして撮りに行っていました。友だちと一緒に行くこともあって、(成田空港側の)さくらの山にも、高校の時ぐらいには友だちと来ていました。その時の友だちのひとりは、航空関連のケータリング会社に勤めています。私は今では成田に住んでいますが、周りの人たちなんて子どもの頃から飛行機が側にあったもんだから、飛行機があるのが当たり前だってよく話していますよ。私にとっても同じような感覚です」

松永: 「実際に航空業界で働こうと思ったきっかけとか、影響を受けた人とかはいますか」

古庄氏: 「高校の時の理科の先生に、パイロットライセンスを持っていて、趣味で飛行機に乗っている人がいました。パイロットになりたかったけどなれなくて、それでも諦められなくてライセンスを取得したようです。その先生に一度、調布の飛行場からの飛行で私も乗せてもらった時、『自分で飛べるって素晴らしいな。免許とりたいな』と思ったのが、まぁ、きっかけですかね」

アメリカで始まった飛行機漬けの生活

松永: 「その飛行体験が、チャーリィさんの今につながっているというわけですね」

古庄氏: 「ただ、貧しい家だったんですよ、めちゃめちゃ。当時、航空会社に入ろうとすると、男性だとJAL/ANAの総合職しかなかった。総合職だといい大学に行くしかない。でも、うちは大学にいけるお金はない。だから高校卒業後に2年バイトしてお金を貯め、渡米して英語の勉強をして、外資系の航空会社に入ろうと思ったわけです」

  • アメリカでパイロットライセンスを取得し、プライベートジェットの会社で運航業務もしていた

    アメリカでパイロットライセンスを取得し、プライベートジェットの会社で運航業務もしていた

古庄氏: 「どうせアメリカに行くのであれば、飛行機の免許をとりたいと思って免許をとりました。アメリカでないと値段的にもとれなかったので。それで、アメリカで4年ぐらい飛んでいましたね。現地の会社でプライベートジェットの運航等をしていました。その会社が潰れて日本に帰ってきた時にちょうどスカイマークが立ち上がったので、私は社員1号として飛行機の調達とか経営企画とか書類申請等を一通りしていました。

その時の上司が後にコンチネンタル航空の日本支社長となって、『うちにこないか』って引き抜いてくれたので、私もコンチネンタルに転職しました。若い時は大手航空会社に勤めているということに憧れがあったものの、実際、それだけ社員数のある会社にもなるとあんまり面白くないんですよ。やることが再分化されていて」

  • コンチネンタル航空時代の古庄氏(右から2番目)

    コンチネンタル航空時代の古庄氏(右から2番目)

古庄氏: 「そりゃ、コンチネンタルと言えば誰もが知っていて、『社員数5万人です、ニューヨークやヒューストン、グアム、ハワイに飛んでいます』等と言いながら、私も恩恵に与ることもありましたが、やっている仕事が楽しいかというと私にはそう思えなかった。サラリーマンに向いていないんでしょうね。一番何が面白かったかというと、ロサンゼルスでみんでやっていた時代は楽しかった」

松永: 「初めて渡米した時に、現地の会社で4年ぐらい飛んでいた、という時の会社ですね」

古庄氏: 「そう。20~24歳の頃で、プライベートジェットの会社なんですけど、子会社に飛行学校等もありました。私がメインでやっていたのがツアー関連で、ロサンゼルスからグランドキャニオンまで飛ばしていました。自分でバスを運転して、自分が副操縦士となって飛ばして、ガイドもする。お客さんには『兄ちゃん、飛行機の操縦もできるの? すごいね』と言われることもありましたね(笑)。その時のチームメンバーとは今も仲がいいです。いろいろなことができて楽しかったし、その時もずっと、写真はやっていました。

コンチネンタル時代も写真は撮っていましたよ。自分の仕事ができていれば何をやっても良かったので、自分の会社『有限会社チャーリイズ』を立ち上げて写真業をやっていました。

そして2011年のテロです。いい条件で早期退職者を募っていたので、そのタイミングで退職しましたが、また会社に戻ることもできるという条件だったので、『カメラマンとしてやってみて、駄目だったら戻ればいいか』という気持ちでした。航空関係で務めている人は航空業界内で転職する人が多いので、スカイマークやコンチネンタル時代の縁で仕事をもらえて、結局そのまま今に至っています(笑)」

だからカメラマンを選んだ

松永: 「航空業界の仕事を一通りされてきた中で、カメラマンという仕事を選んだ理由はなんだったのでしょうか」

古庄氏: 「そうですね、やっていないのは整備だけですね。航空会社に入ると、自分の会社以外の飛行機にはあんまり乗らなくなります。そりゃそうですよね。いろいろな飛行機に乗りたいって考えた時に、『カメラマンをやっていればいろいろな飛行機に乗れるよな』と思った。それが結果的にギネス記録につながった、という感じでしたね。

あと、同僚のこともあるかな。ロス時代のプライベートジェットの会社には飛行機好きが集まっていたから、『みんなで頑張ろう!』という空気がありましたが、コンチネンタル等の大手になると、飛行機好きが集まっているわけではないんですよ。大手だからとか、給料がいいからとか、職業のひとつとして選んでいる人もいる。逆に言うと、私のような根っからの飛行機好きは異質な感じはありました。

例えばあのテロの時に、自社の飛行機がどこにあるかを考えて私なんかはすぐに会社に行ったんですが、中には『私たちが行ったって、できることはないじゃない』と話すスタッフもいて、『航空会社の人間として、そうじゃないだろう』というプライドが私にはあった。こういう人たちとは仕事をしたくないなという思いも、少なからずあったな」

松永: 「ギネス記録の話をうかがってもいいでしょうか。ギネス記録は自分が申請して、それが通れば認定されるわけですが、挑戦しようと思ったきっかけなどはありましたでしょうか」