落合氏:間違いなく映像文化というのは文化として存在しています。映像ってアートとしても面白い存在で、逆に僕は個人的に手書きのアニメーションというのは好きなんですよ。だって世の中が全部CGに進んでしまったら、その中で手書きでいるというのはすごくパンクでしょう。実際、初代『ガンダム』のロボットの動きのほうが、人間の感覚的にCGのガンダムよりロボットとして訴えてくるものがある。歪んでいる感じがすごくいいんですよね。

富野監督:実はここ一年ぐらい前から、我々のまわりでもそういうことが言われるようになりました。「手書きアニメのほうがレアに見えるんだよね」という理解ですね。なので、手書きのアニメーションという文化を一つのジャンルとして残していきたいと考えていて、そういった意味で『G-レコ』でやっていることは間違いではなかったのではないかと思っています。

小形氏:落合さんの著書の中ですと、コンピューターが登場してきたことによって、劇的に人間のコミュニケーションや表現がどんどん拡大していくということでした。そうなってくると、もしかしたら手書きのアニメーションも、CGの発展によって同じようなものが味わえるということになるのではないでしょうか。

落合氏:2030年か40年になったらそこに到達しているとは思います。コンピューターで代替可能は代替可能なのですが、何を基準に代替するのかというのは、先人の遺産を見なければなりません。ですので、富野監督があと50年現役で戦っているかどうかはわかりませんが、監督には今できるベストエフォートで手書きアニメを残していただかないと、僕たちはコンピューターを使って何をサンプリングしていいのかわからなくなってしまいます。

富野監督:落合くんが著書の中で何度も何度も「古典に戻らなくちゃならない部分がある」ということを言っているのは、だからなのね。だけど、これお世辞じゃないの(笑)?

落合氏:お世辞じゃないですよ。「富野エンジン」をどうやって作るのかというのが僕の課題なんです。おそらく2040年ぐらいになったら、僕は授業していなくて、僕のTwitterの発言集が授業するくらいになっていると思うのですが、そうなると今生きている著名なアニメ監督の方々などがどういう思考法とプロセスで作品を作ったかということが、今残しておかないと永久になくなってしまうのではないかという危機感があります。

小形氏:それは、その時代にはこういった考え方のアーティストや監督は生まれないということでしょうか。

落合氏:生まれないでしょうね。むしろ、コンピューターに親和性が高い人はコンピューターをベースにものを考えるようになるので。もちろん、それはそれで歓迎されるべきだと思うのですが、一方で人間の多様性が減って表現の幅が狭くなる可能性があります。

小形氏:その時になったら、「富野由悠季」「宮﨑駿」というコンピューターが存在して映画を作り続ける時代になるということですか?

落合:そうなると思います。例えばモーツァルトとか。