――びっくりするほどエンタメ作品になっていた印象でしたが。
それは目指したから。これまでの実写映画の中で一番エンターテインメントすることに徹しようと努力した。時々はみ出たけど。隊長と高畑が延々としゃべっているところとか、それを含めてエンターテインメントしているなと。言ってみれば、あんこの中に塩を入れると味が締まるようなものだよね。しょっぱくしたいわけじゃないし、誰も気がつかなくてもかまわない。何か延々としゃべっているなという、その時間経過が映画には必要なんだよ。
お客さんは気がついていないけど、頭の中で映画を整理する時間が必要なんですよ。と、思っているんだけど。次から次へ物事を起こせば退屈しないけど、それでは自分の中で整理する時間がないんです。だから終わった時に何も覚えてない。間を空けず何かが起きることを好むお客さんがいることも確か。そういう映画も否定しないけど、2週間後には速やかに忘れられている映画を自分が作ろうとは思わない。
映画って、監督にもいろんな動機があるし見る側にもいろんな動機があって、それを否定できないしする気もないんですよ。たまにはマイケル・ベイとかソダーバーグも、観ている間は退屈しないし、お姉ちゃんと行くには一番いいのかもしれない。そのあと食事するくらいの時間も。
――すみません、そろそろ「首都決戦」の話をお聞きしても……。
あぁ、はい(笑)。
今の時代の"社会の敵のありよう"
――先の公開版に比べて、キャラクターの見えなかった部分が見えてくるところがありました。灰原は特に、現実感なく常に何かで遊んでいる様子が強調された印象です。
バスケットボールの意味だよね。明と灰原はなぜいつもバスケットボールを持っているかってさ。高畑もボールを持って眺める。あの3人に何か共通項があるのかと。そこから先は、言ってみれば物語のバックグラウンドの部分。なくても物語は見られるしストーリーはわかるんだけど。
――あらすじには必要ないけれどその人の背景に存在するものがあると。
監督がディテールを作るのは、それが必要だからではないんです。必要じゃない部分も作り込まないと、必要が見えてこない。僕が好きなある作家が書いているんだけど、難しいままで包囲すると、難しいことの正体が現れると。人間って、そうやって表現するしかないんだろうと。
だいたい台詞でやるわけですよ。あいつはああいう男だと周りの人間に語らせるか、俺はこういう男だと自分で言うか。それは両方とも安直。そのときその男がどんな顔で何をやっているか、じわじわと包囲していかないと、その人間の本質が最終的に油が滲むように見えてこない。
なぜ灰原がいつも仏頂面でボールをついているか。絶えずボールついて人をイライラさせる。うるさいと言われてもやっている。それが灰原という女の本質だから。僕に言わせると、非常に不愉快な女として描こうと思った。そばにいてほしくないヤツ。たぶん、今の時代のテロリストってそうとしか言いようがないんですよ。
――他人を不快にさせることが目的?
そう、もちろん。自分にとっての快感原則を追求すると、間違いなく周囲にとって不快な存在になる。たぶん、灰原ってメッセージもないし、話すことも何もない。ただ世の中に対する敵意しか持ってないわけですよ。それが今の時代のテロリスト。