僕に言わせると、マーベルはお客さんを選ぶ映画ですよ。ヒーローという、映画の構造に特化しているから。今は時代がたまたまそっちに向いているけど、10年経ったらマニアしか見ない特殊な映画であることは間違いない。映画が面白いのは、その時代時代で必ず何かしらに特化しているんだよ。スタンダードというのがない。ただ、今の日本の映画はスタンダードもないけど何かに特化もしていない。一貫性がなくて何が当たるか全然わからない。何をやればある程度の動員が見込めるかという基準もない。

たぶん、『パトレイバー』という作品も日本映画の中では席が難しい作品なんですよ。警察ものの範疇にもない、ロボットでもSFでもない。じゃあポリティカルフィクションなのかというと、それにしては下らないことをたくさんやっている。キャラクターが真面目なのかいい加減なのかもよくわからないという。これはアニメが作り出したある種の文化なんですよ。群れ感というか、それをやめてしまうとパトレイバーを今まで見てきたお客さんは多分怒る。真面目に作りすぎても、大馬鹿やりすぎても怒る。まずはパトレイバーじゃなきゃならない。

実写になったパトレイバーであるために何が必要か割り出して作ったわけだから、シリーズはああでも映画ではシリアスなものを要求されるだろうと。だからどうしても自衛隊を巻き込んで、という話になっちゃいました。結果として日本映画では座る席が難しい映画になることはわかっていた。

『パトレイバー』に多少なりとも引っかかった人しか観に来ないとなったら、配給する側、お金出す側からすれば、急に不安になっても仕方がないっていうさ。だから可能なことは何かというと、無駄なところを全部切ってコンパクトにして、お客さんが飽きないようにする。今のお客さんはすぐ飽きるからという説になっているから……僕はそうは思っていないんだけど。

「セット」を考えるのが監督の役目、映画の文化の部分

――30分ほどの映像が増えても、ストーリー的には変わっていませんでしたが、裏で動いているものの大きさが違って見えました。

ストーリーは変わっていないけど、物語が変わるんだよね。ストーリーは何がどうしてどうなったという部分であって、そこから先が物語になる。出てくる人間の背景とか動機とか欲求とか、そういう部分を含んだもの。話がわかればいいという頭でみれば、全部いらないところになる。でもそれでは、物語が観たいという欲求は満たせないんです。

アクションとかエッチなシーンは、基本的にはオマケなんですよ。アクションしている間、物語は一歩も前進しないから。キャラクターの見せ場にはなって、性格や考え方が、結果としては出てくる。けどそれは結果で、物語は前進しないしキャラクターの理解も進まない。それが見たいお客さんもいるし、ないと辛いだけの映画になっちゃう。

だから、パンがいくら美味しくてもあんこが入っていたらいいなとか、間にお茶が欲しいとか牛乳が飲みたいとか、そのバランスを考えてセットで用意するのが、映画監督や映画を世に出す人間の仕事。この映画をこう味わえばいいと思いますよ、と。それが映画の文化の部分。それを抜いちゃうとただの材料にすぎない。自分のパソコンで好きに編集すればいい。そういう楽しみ方ができるようになったし、それは監督が口を挟む世界でもなんでもない。ただ、映画館でお金を払って一度きり観るんだったら、セットで観ようよ、というのが言いたいことなんですよ。薄皮じゃなくてパンが欲しいでしょう、あんこがデカければいいというものでもないよね、と。

監督は映画と一番深く付き合うから、そこを言い切っちゃうことが難しくて、あんこを入れすぎたと思うこともあれば、意地を張ってパン生地に凝り過ぎたと思うこともある。今回はそういう意味では、ものすごくバランスよくできたと自負したんですよ。あなたの映画にしては珍しく面白いと公開してからずいぶん言われたから。でも、それにしてはちょっとわからない部分が多いんだけど、と。難しいんじゃなくて、飛ばしすぎじゃないかと。その時はディレクターズカット版をやりますと言えなかったからね。