コンピュータの強靭な粘りの前に船江五段の指し手が乱れる

図5(68手目△2二金打の局面) この局面でボンクラーズの評価はコンピュータの+173

図の△2二金打は人間にはなかなか考えにくい手といえる。戦国時代の合戦にたとえると、陣地に迫られた大将が自分の安全を優先して貴重な兵力を守備に使い、代わりに前線で戦う兵隊を見殺しにしたようなイメージ。人間ならそういうことをしてもジリ貧になることを経験的に知っているので指しにくい手である。しかし、実際に指されてみると△2二金打は粘りある好手だった。一部の兵力が犠牲になることで大将を守り、残った兵力が活躍するための時間を稼いだのである。

コンピュータが好手で粘ったとはいっても、冷静に局面を判断すればまだ人間側がかなり優勢であった。だが、楽勝ムードから意外な粘りを受けて船江五段は動揺したのかもしれない。この後すぐに、強引に勝負を決めにいってしまったのだが、そこでコンピュータが好手を繰り出して形勢が急接近する。

図6(74手目△5五香の局面) 解説の鈴木八段が「今日一番の好手」と評した手

図の直前に▲4三馬としたのが勝負を決めにいった強手。対して△5五香がコンピュータの強さを物語る素晴らしい一手だった。この手は王手なので先手はそれを避けなければいけないが、玉を横にかわすのは危険。そこでやむなく持ち駒の歩を5六に打って受けたのだが、歩を使わされたことで後手玉への早い攻めがなくなり、反撃を受けることになってしまった。

さて、この段階でプロの形勢判断は優劣不明になっている。しかし、ボンクラーズの評価は優劣不明を通り越してコンピュータ大優勢へと傾いていくことになる。「そんなに差がついているはずは……」とプロ棋士が首をひねる中で事件は起きる。本局の最大のポイントである。

ボンクラーズの評価値はついにコンピュータの+995。船江五段大ピンチなのか?

コンピュータの好手△5五香の局面からはツツカナの猛攻が始まった。船江五段も応戦して凄い攻め合いになったが、しばらく進むとボンクラーズの評価値がみるみるコンピュータ側に傾き始める。優勢の目安と言われる+500点のラインをあっさり突破し、終局間近の局面を除けばこの日もっとも点差が開いたのが次の局面である。

図7(88手目△4三金の局面) コンピュータの+995となった局面

図の△4三金でボンクラーズの評価がコンピュータの+995点になる。一般的に「1000点差ならほとんど逆転しない」と言われており、かなり絶望的な差である。だが、控室で検討していたプロ棋士は、その点差に首をひねっていた。

「形勢不明か、少し船江さんがいいぐらいじゃないの?」
「995点も差があるようには見えない」
「何か(我々が)見落としている手があるのかな……」

プロ棋士は「人間側が互角かそれ以上」と判断していたが、ボンクラーズの+995という評価値を見て、さすがに疑心暗鬼になっていた。果たしてプロの形勢判断が間違っているのだろうか……。

ツツカナが大悪手を指す。そのメカニズムに迫る。

△4三金の局面から3手進んだところで、ボンクラーズの評価値が突然コンピュータの+211まで激減した。それもツツカナが特に間違った手を指したわけでもないのに、である。これはどういうことかというと、ツツカナが後に訪れる局面で予想していた展開に重大な見落としがあったことを意味する。その誤算があったと思われるのが次の図で、本局で最大のミステリーともいえる局面だ。

図8(94手目△6六銀の局面) ツツカナが重大なミスを犯した局面

まず、△6六銀を見た解説の鈴木大介八段の反応から見て欲しい。

「あの、教えて欲しいのは、さすがにハッタリ機能はないんですよね?」
「指した手はむこうは最善だといってるんですよね?」
「何か考えがあるのか‥」 「びっくりして投了したくなる」

鈴木八段がこれだけ驚いたのはなぜか。それは△6六銀という手には、実はある目的があるのだが、プロ棋士ならその目的が成立しないことがすぐにわかるからである。プロならひと目でわかることがツツカナにはなぜわからなかったのか――その理由を解き明かすのは一筋縄ではいかないが、本局で最も注目を集めた局面でもあるので、じっくりと解説してみたい。

まず△6六銀というのは、銀をタダで捨てる手で普通なら大損する手である。なぜそんな手を指すかといえば、銀をタダで捨てること以上に大事な目的があるからで、ツツカナには自玉の詰みを防ぐという目的があった。詰みというのは最終的に玉を取られてしまうことで、そうなったら言うまでもなく将棋は負けである。だから場合によっては駒をタダで捨ててでも防がなければいけないし、逆にいえば、いくら駒を損しても相手の玉を詰ましてしまえば勝てるのが将棋というゲームである。

さて、△6六銀の一手前の局面でツツカナは、相手の玉を確実に詰ませられる状態へ持っていくことを狙っていた。将棋の符号であらわすと△5八金▲同玉△3八角成という手だ。しかし、その手順を決行すると最後の△3八角成とした瞬間に、▲2五竜という手で自分の玉が先に詰まされてしまうのである。そこで出てくるのが△6六銀という手で、この手は銀を相手の竜に取らせることで竜の位置を変えて、自玉の詰み筋を防ごうという狙いだった。

もう一度、図8(94手目△6六銀の局面)

そして、図8の△6六銀に▲同竜と取った局面を想像して見て欲しい。竜の位置が変わったため▲2五竜とする手がなくなっていることがわかるだろう。ツツカナは、これで自玉の詰みを防いだので、次に△5八金▲同玉△3八角成という狙っていた手を決行して有利になると読んでいた……が、銀を捨てたことで、その局面では▲1五銀という手から後手玉が詰んでしまうのだ。これはツツカナがうっかりしていた、ということになるのだろうか……。

ややこしい話なので整理すると「ある詰み筋を防ぐために銀を捨てたところ、その銀を使った別の詰み筋が生じてしまい、ツツカナはそれを見落としていた」ということになる。そうなると銀を捨てた意味がまったくなくなってしまうので、銀損というとてつもなく大きな損だけが残ってしまうということになるのだ。コンピュータ将棋は、詰みを読む能力では人間をはるかに凌駕していると言われている。それなのになぜツツカナは詰みを見落としてしまったのだろうか。

実はコンピュータは全ての局面で詰みがあるかどうかをチェックしているわけではない。それをやると、いかにコンピュータといえども負荷がかかって、普通の手を読む能力が落ちてしまうのである。そのため、詰みの有無を読む必要があるかどうかを局面ごとに判断して、"詰みを読むかどうか"を決めているのだ。そしてツツカナは、△6六銀の直前、△5八金▲同玉△3八角成と指した局面については詰みの有無をチェックし、自玉が詰んでしまうことを発見していたが、その詰み筋を避けるために△6六銀▲同竜という手を入れた後に△5八金▲同玉△3八角成と指した局面では、詰みの有無をチェックしなかったのである。これはコンピュータ将棋の重大な弱点であり、今後の勝負でも大きなポイントになるかもしれない。

さて、このあたりで謎解きを終了して対局の状況に戻ろう。ツツカナの読み抜けによるミスは致命的で、数手進んだところでは人間側が再び勝勢となった。ボンクラーズの評価も人間側の+400以上までいっている。だが勝負はまだ終わらない。この先、人間側にとって信じられない展開が待っていたのである。……続きを読む