新しいキャリア、新しい場所…。新しいことにトライするには、苦難や苦労がつきものです。ただ、その先には希望があります。

本連載は、あなたの街の0123でおなじみの「アート引越センター」の提供でお送りする、新天地で活躍する人に密着した企画「NewLife - 新しい、スタート -」。

第25回目は、CHEMISTRYとして20周年を迎え、俳優としても活躍する堂珍嘉邦さんにお話をうかがいました。

  • ミュージシャン/俳優の堂珍嘉邦さん

    第25回目は、ミュージシャンであり俳優でもある「堂珍嘉邦」さん

Debut
CHEMISTRYとしてデビュー
ソロ活動や俳優業にも挑戦

「ずっと自分を信じ続けていた」

2001年にオーディション番組「ASAYAN」からデビューし、音楽シーンを席巻したヴォーカルデュオ「CHEMISTRY (ケミストリー)」。堂珍嘉邦さんは、プロのアーティストを志すようになって以来、自分を信じて諦めなかったと断言します。

  • 堂珍嘉邦さん①

CHEMISTRY活動休止後は、ソロ活動に専念。役者としても舞台や映画と活躍のフィールドを広げています。夢を叶えてなお挑戦をやめないのはどうしてなのでしょうか?

Background
珍しい名前にコンプレックスも
歌うことが大好きだった引っ込み思案の幼少期

  • レコーディングに臨む堂珍嘉邦さん①

少年時代の堂珍さんは、大人しい子どもだったそうです。引っ込み思案の性格の背景にあったのが“堂珍”という珍しい名前。

名前に関してコンプレックスがあって……。

目立ちたいけど、目立ちたくない。葛藤があったように思います。


  • レコーディングに臨む堂珍嘉邦さん②

どちらかというとスポーツより勉学に励み、中学受験を控えた小学6年生のときには進学塾に通って夜遅くまで勉強していたと言います。

そんな堂珍少年には人知れぬ趣味がありました。それは歌うこと。

歌が大好きだったので、誰もいないところで歌って遊んでいました。

家族が出かけると応接間を閉め切って歌い始めて、帰ってきた気配を感じるとすぐに片付けて(笑)。歌詞カードが擦り切れるくらい、歌っていましたね。


  • レコーディングに臨む堂珍嘉邦さん③

初めて音楽の魅力に引き込まれたのは、小学生の頃に観た映画『スタンド・バイ・ミー』がきっかけでした。

森の中を冒険する子どもたちに自らを投影しながら鑑賞していると、エンドロールで雷に打たれたような衝撃が走ったのだとか。

  • レコーディングに臨む堂珍嘉邦さん④

聞こえてきたのは、ベン・E・キングの名曲『スタンド・バイ・ミー』。
両親のレコードコレクションにあったのが、ジョン・レノンがカバーした『スタンド・バイ・ミー』だったため、 堂珍さんは次第にジョン・レノンに惹かれていったのです。

中学に進むと友だち同士でCDを貸し借りするようになり、初めてビートルズを聴きました。ジョン・レノンって、このグループのメンバーだったんだってそのとき知って(笑)。

もちろん、日本の歌も素晴らしい作品が多かったのでたくさん聴いていました。


  • レコーディングに臨む堂珍嘉邦さん⑤

コード表を買ってきてはギターで弾き語る日々。

けれど、まだ人前で披露することはできず、音楽の世界を目指したいとはこれっぽっちも思わなかったそうです。

Determination
高校卒業後、オーディション挑戦を決意
生活費を稼ぐため、さまざまな仕事に就く

  • 堂珍嘉邦さん②

心情に変化が訪れたのは、高校生になったとき。「いいかげん、塞ぎ込むのはやめよう」と、自身を奮い立たせる出来事が起こりました。

高校1年生の終わりにロサンゼルスにホームステイをしたのですが、帰国前のパーティーでお礼に歌をプレゼントすることになりました。歌ったのは、Mr. Bigの『To Be With You』。

ホストファミリーたちから「君は日本のビートルズだ」と褒められたことが嬉しくて「俺、いけるかもしれない」と真に受けてしまったんです。良い勘違いをしました(笑)。


  • インタビューに答える堂珍嘉邦さん①

堂珍さんは、帰国後すぐにバンド活動をスタート。

尊敬する先輩のライブでは、ただ憧れて眺めていたときとは打って変わって、自身との差を確認しながら観るように。この頃からメジャーデビューをしっかりと見定めていたのです。

音楽くらいしかやれることはない」。
夢への思いは日に日に強くなっていきました。

  • インタビューに答える堂珍嘉邦さん②

高校を卒業後、堂珍さんはオーディションに挑戦することを決意しますが、そのチャンスは多くありません。生活費を稼ぐため、さまざまな仕事に就きました。例えば、広島市民球場でのアルバイトです。

入場ゲートでチケットをもぎったり、7回裏が始まる前に飛ばされるジェット風船を拾ったりしていました。

広島市民球場は、思い出の場所です。子どもの頃はメロンをプラスチック容器に入れて持って行って、それを食べながら家族で年に一度観戦するのが夏休みの恒例行事でした。


  • インタビューに答える堂珍嘉邦さん③

また、テレビ局でADとしても働きました。

音楽業界を肌で感じたかったので、自分が好きで観ていた音楽番組のプロデューサーと母が知り合いだったこともあり、お願いして働かせてもらいました。けれど、蓋を開けてみるとバラエティー班の配属で(笑)。

ロケに行って荷物を運んだり、カチンコを打たせてもらったりしましたが、右も左もわからなかったので、何もできなかったです。どうにかして音楽業界に入り込めればと考え、宴会では俳優さんや女優さんたちの前でカラオケを歌ったりしましたが、そううまくはいきませんでした。


  • インタビューに答える堂珍嘉邦さん④

夢は、自分の力でつかみ取る。覚悟が決まった瞬間でした。

Originality
デュオを組んで気付いた自分のオリジナリティ
1stアルバムは300万枚の歴史的セールスを記録

  • レコーディングに臨む堂珍嘉邦さん⑥

アルバイトをしながら夢を追う堂珍さんが全国規模のオーディションに初めて挑戦したのは、1997年に開催された『THE JAPAN AUDITION(以下、TJA)』でした。

全国で20万人ほどがしのぎを削る中、50人まで勝ち残りますが、残念ながら最終審査出場は叶わず。それでも、決して下を向くことはありませんでした。

あと一歩のところまで来られたので、自分には何が足りないのか、「オリジナリティ」について考えを巡らせるようになりました。

そのときは、ぼんやりとしかわかりませんでしたけど。


  • レコーディングに臨む堂珍嘉邦さん⑦

堂珍さんが言うオリジナリティは、意図せず次のオーディションで明確に輪郭を帯びるようになります。それが「夢のオーディションバラエティー」として大人気だった『ASAYAN』のオーディションです。

オーディション全盛の時代でしたが、その多くは女性が対象でした。いずれ男性のオーディションもあるだろうと注目していたときに飛び込んできたのが『ASAYAN』の「男子ヴォーカリストオーディション」だったんです。

TJAが20万人だったの対し、『ASAYAN』の応募者は2万人ちょっと。絶対に勝ち残ってやると思いました。


  • レコーディングに臨む堂珍嘉邦さん⑧

堂珍さんは大阪大会にエントリーし、一次審査をクリア。何度かの審査を経て、2万人ほどいた応募者は、堂珍さんと後のパートナーとなる川畑さんを含めて5名に絞られることに。

しかし、ようやくたどり着いた東京の『ASAYAN』のスタジオで、予期せぬ発表がもたらされます。

「2人組になる」と聞かされて、正直驚きました。

「1人の方がいい人は帰ってもいい」と言われたのを今でも妙に覚えていて、手を挙げて帰っていたら今頃どうなっていたんだろうと思います(笑)。


「とりあえずデビューしよう」。そう気持ちを切り替え、山中湖で行われる2週間の合宿に参加。この合宿が、堂珍さんの自信を確固たるものとする契機となりました。

合宿では参加者同士でデュオを組み、それぞれの組み合わせでハーモニーを奏でたんですが、その中で作り物ではない素の歌声の良さを実感して。

それまでは誰かの真似をしていたに過ぎなかったのだと気づくことができました。


  • レコーディングに臨む堂珍嘉邦さん⑨

TJAで落選してから頭を離れなかったオリジナリティに対する答えが見つかり、「絶対にいける!」と確信を持つようになったそうです。

その後、1人が脱落し、残った4人の組み合わせで前例のない「仮デビュー」を果たすなど、プロデビューに向けた歩みを着実に進めていきました。

仮デビューにあたって初めてレコーディングを体験しました。

プロデューサーさんからアドバイスをもらいつつ、熱を込めてマイクに乗せた歌をプロのエンジニアさんに録ってもらう。アーティストとしての第一歩を踏み出せたような気がして心地良かったですね。

「デビューまで、もうひと踏ん張り」と気合いを入れていました。


  • レコーディングに臨む堂珍嘉邦さん⑩

そして、運命の日を迎えます。舞台は、年が明けたばかりのニューヨーク。

堂珍さんと川畑さんが栄冠を手にし、ヴォーカルデュオ「CHEMISTRY」が誕生しました。

相方の川畑は、友だちにはいないタイプです。でも、同じ年だから聞いてきた音楽は一緒ですし、互いのないものを補い合えると感じていました。

自信は持ち続けてきましたが、デビューまでの道のりは長かったですね。


  • レコーディングに臨む堂珍嘉邦さん⑪

CHEMISTRYのデビューは、実に華々しいものでした。

デビュー曲『PIECES OF A DREAM』がミリオンを突破し、1stアルバム『The Way We Are』 は300万枚の歴史的セールスを記録しました。

名前にコンプレックスがありましたが、『堂珍といえばCHEMISTRYの堂珍嘉邦』という認識が世の中に広がり、ようやく胸を張れるようになりました。


堂珍さんは、信じ続けた歌の力でコンプレックスを見事に解消したのです。

Challenge
「自分で曲を作って演奏したい」
CHEMISTRY突然の活動休止からソロ活動に専念

  • ギターを弾く堂珍嘉邦さん①

しかし、順調に活動を続けるも、堂珍さんの中では“ある思い”がふつふつと湧き上がってきたそうです。

あるときから、自分で曲を作って演奏したいと思うようになりました。

プロデュースしてもらうことで恩恵を受けているからこそ余計に、今のままで良いのだろうかという不安が芽生えてきたんです。


  • ギターを弾く堂珍嘉邦さん②

デビューから10年を走り切った2012年の突然の活動休止には、いわば表現者としての苦悩があったのです。

ソロデビューし、CHEMISTRYとは違う少数精鋭での活動に少し戸惑いつつも、やりがいを感じながら音楽にのめり込んでいきました。

バンドでツアーを回りたいとか、フェスに出たいとか、再び夢ができました。2回目のデビューという新鮮な面持ちでした。



堂珍さんのワンマンライブの様子

ソロデビューと同時期に始めたのが俳優業への挑戦です。

映画出演のオファーをいただいたのが、ちょうどソロデビューをするくらいのときでした。戦争映画だったので、広島の呉にある海上自衛隊の学校に体験入隊し、その経験を役作りに活かしました。

それから舞台や映画の仕事が増えましたが、たくさんの学びにつながっています。


  • 俳優としても活躍する堂珍嘉邦さん

CHEMISTRY、ソロ活動、俳優業。
すべてが有機的に結びつき、表現者・堂珍嘉邦を構成しているのは間違いないでしょう。

Belief
自分が進むべき道は、他人と同じではない
ターニングポイントで動けるかどうかで人生は変わる

  • テーブルに腰掛ける堂珍嘉邦さん

ただ、CHEMISTRYは解散したわけではありません。成長して戻ることを約束していた2人は、活動休止から5年後の2017年に再集結しました。

CHEMISTRY再開後の最初のライブでは、リハーサルが始まる直前に堂珍さんの父親が死去する試練に見舞われるも、相方不在のリハーサルを推し進めたのは川畑さん。「要が『俺が全部やる』と相棒らしいことを言ってくれた」と目を細めました。

CHEMISTRYで出した代表曲をリメイクしたり、ライブコンセプト毎にアレンジしたりもしていますが、年齢を重ねると歌の主人公が変わることがあっておもしろいですね。

以前は励まされている側で歌っていたのが、今では誰かを励ます側に回っていたりして。


  • ギターを弾く堂珍嘉邦さん③

「特に歌は、自分にとっての栄養」。そう語る堂珍さんは、生きている限り、ステージに立ち続けたいと力を込めます。

歌は、聴く人を高揚させる高貴な一面がある反面、フレンドリーで身近なものです。手の込んだ楽しさもあれば、素朴な楽しさもある。

その振れ幅を僕自身も楽しみながら、できるだけ多くの人を幸せにしたいですね。


  • ギターを弾く堂珍嘉邦さん④

ソロデビューや俳優業への挑戦は、この振れ幅をカバーするためにも必要な決断だったのかもしれません。

自分が進むべき道は、他人と同じではありません。また、追いかけたい夢と現実が異なることもあると思います。

でも、何より大切にしてほしいのは自分の価値観。「ここがターニングポイント」と思ったときに動けるかどうかで、その後の人生は大きく変わります。


  • ギターを弾く堂珍嘉邦さん⑤

「135歳くらいまで生きたい」と笑う堂珍さん。“終わり良ければすべて良し”の精神で、これからも表現することに貪欲でありたいと意欲的に話してくれました。

  • ギターを手に持つ堂珍嘉邦さん

人生が終わるその日まで、何が正解か誰にもわかりません。信じた道を突っ走る――。その矜持に勇気づけられました。

  • インタビューの様子をYouTubeでも公開中

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アート引越センターは、一件一件のお引越に思いをこめて、心のこもったサービスで新生活のスタートをサポート。お客さまの「あったらいいな」の気持ちを大切に、お客さまの視点に立ったサービスを提供していきます。


Photo:伊藤 圭
Hair make:関東沙織

[PR]提供:アート引越センター