――あらためまして、放送作家になられたのはどのような経緯だったのですか?

僕は(ビート)たけしさんと仕事がしたいという思いだけで放送作家になりました。実は弟子志願も一瞬考えたんですけど、『オールナイトニッポン』(ニッポン放送)でたけしさんの前で笑ってる高田文夫さんが放送作家という職業だと知って、じゃあそれになろうと(笑)。当てもなくとりあえず上京してしばらく路頭に迷ってました(笑)。今から思えば無計画すぎてバカだったなと思いますけど。それで、ひょんなことから当時お笑い集団だったホンジャマカの座付き作家となり、そこからテレビ業界に入ってきたという感じです。

――そこからどのような番組に携わってきたのですか?

そういう経緯でキャリアをスタートさせたので、最初はコント番組が多かったですね。『ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!』(フジ)をはじめ、『ウッチャン・ナンチャン with SHA.LA.LA.』(日テレ)とか、ホンジャマカとさまぁ~ず(当時バカルディ)の『大石恵三』(フジ)とか、コント番組を何本も掛け持ってました。それが、『ウンナン世界征服宣言』で土屋(敏男)さんと出会って『進め!電波少年』(日テレ)をやることになるんですけど、この番組でテレビに対する考え方が180度変わりました。それ以降、ドキュメントを中心とした番組が増えていきました。

――『電波少年』の「ヒッチハイク」は、中野さんの企画だと伺いました。

いや、あれは土屋さんの企画ですよ。僕は『ウンナン世界征服宣言』で、ヒッチハイク対決という企画を出しただけです。当時、ヒッチハイクなんて日本でやってる人はいなかったのに、土屋さんが面白がってくれて。ただ芸能人だと簡単に乗せてくれるだろうからって、ウッチャン、ナンチャンと気づかれた時点で車を自ら降りなきゃいけないというルールをのっけて何回かやりました。で、そのヒッチハイク企画に土屋さんが沢木耕太郎さんの『深夜特急』を掛け合わせて猿岩石の「ユーラシア大陸横断ヒッチハイク」を思いつくんですけど、会議で土屋さんが「こんなのやろうと思うんだけど」って言い出した時は、バラエティ番組でそんなスケールの企画を考えるのかと驚いたのを覚えてます。

――それが視聴率30%を超える大ヒット企画になるんですね!

そもそもヒッチハイク対決って僕が19歳のときにあまりにもお金がなくて富山の実家まで東京からヒッチハイクで帰った経験が元になってるんです。当時のヒッチハイクって、沿道で親指を立ててアピールするというイメージだったじゃないですか。でもそうやって立ってみたけど全然止まってくれなくて。それで文房具屋でスケッチブックとマジックを買って一番近い都市を大きく書いて立ってみたんです。そしたらすぐに止まってくれた(笑)。それを繰り返して田舎の富山まで帰ったんです。

――もう、あの企画の原型ですね。

会議では「日本で乗っけてくれるか?」という声もあったんですけど、自分が経験してたので大丈夫だと(笑)。富山までの間にいろんな人に乗せてもらいました。埼玉で拾ってくれたのがアメリカ在住経験のある保険会社の人で、「アメリカならヒッチハイクする人はいたけど、日本でそんなことやってるヤツいないから面白いと思って拾ったんだよ」って。で、「これから事故の現場検証に行くから、それ手伝ってくれ」って(笑)。一緒に上尾警察署に行って、事故現場で距離をメジャーで測るのを手伝ったりしました(笑)。他にも、デート中で助手席に彼女がいるのに男のほうが面白がって乗せてくれたんだけど、僕が後部座席にいる中、彼女が「なんでこんな人乗せるの?」って怒ってて、異常に気まずい目に遭ったり(笑)。

いちばん強烈に印象に残ってるのは長野あたりで乗せてくれたダンプの運転手さんでした。「今日はどこに泊まるんだ?」と聞かれて「野宿するつもりです」って言ったら「長野は寒いから家に泊めてやるよ、その代わり飲みに付き合え」ってなって、近所のスナックでおごってもらいました。で、そのあと家に行ったら誰も居なくて、「ご家族は?」って聞いたら、先月、奥さんがノイローゼで子供を道連れに無理心中したんだって教えられて。で、片付けずに残ってる子供部屋とか見せられて、朝まで家族の写真とか子供が描いた絵とか見ながら酒に付き合いました。

――すごい…。やっぱり“普通の人”にもドラマがあるんですね。

そんなこんなで9台ぐらいの車を乗り継いで実家までたどり着くんですけど、終わってみればいろんなことがあって面白かったんですよね。で、去年、その時に使ったスケッチブックが実家から出てきた(笑)。お袋が生前整理で物置を片付けてたら、「こんなもの出てきたけど持ってく?」って。30数年ぶりに開いたら1ページ目は「大宮方面まで」と書かれてました(笑)

■面白い番組は確実に増えている

――長年の間、テレビの世界にいらっしゃって、今のテレビに対して感じることはありますか?

テレビに言いたいことっていうより、一部の人たちが言ってる「テレビはもうダメだ」みたいなことには反論したいですね。テレビに関わって30年以上経ちますけど、昔よりも今のほうが断然面白いです。「テレビはつまんなくなった」って言ってる連中には「おまえ全部見てんのか?」って言いたい。クオリティは今のほうが相当高いし、面白い番組は確実に増えていますよ。

――進化していると。

面白さに多様性があるしディープ。例えば、『水曜日のダウンタウン』(TBS)『クレイジージャーニー』(TBS)『しくじり先生』(テレ朝)、この3本だけでもそれぞれ違ったディープな面白さがあるじゃないですか。もちろんこれ以外にも違う種類の面白い番組はたくさんある。それを同時期に楽しめる時代ってあったかなぁって思うんですよね。「若者のテレビ離れ」って言われてますけど、それは「ハード」のことで「ソフト」としての「テレビ離れ」はないと思いますね。

――「規制が厳しくなってきた」という声についてはいかがですか?

昔も今も変わらず規制はありますから。規制が厳しくなってやりたいことができなくなったとは思わないですね。「昔は女性の乳首はOKだったけど今は映せなくなった」って懐古的に言う人もいますけど、それってコンプライアンス以前に今、そんなことを面白がる人は少ないから、別に乳首を出すような企画をやりたいとも思わない(笑)。昔は、面白がることのレベルが低かったんだと思いますね。だって会議で「乳首がダメなのか、おっぱいがダメなのか。もしおっぱいがダメなら、おっぱいを隠して乳首だけこっそり出すのは大丈夫なのか」「確認します」ってバカなこと言ってた(笑)。今、会議でそんなレベルの低い話してないですもん(笑)。最近は30代の演出家と仕事することが多いですけど、僕らが30代の頃に比べるとはるかにレベルは高いと思います。

――今後やってみたい番組はありますか?

これまでは発注があってから考えてたので、漠然と「ありそうでなかった番組」としか思ってなかったんですけど、『この差って何ですか?』を一緒に立ち上げた正木(敦)さんというプロデューサーは、僕よりも年上なのにいまだに企画書を出しまくってるんですよ。番組がないなら分かるけど、ゴールデンのレギュラー3本も抱えてるのに。その姿勢を見習って歳とったからこそもっと積極的に企画を考えていかなきゃと思い始めてます(笑)

――ご自身が影響を受けた番組を1つ挙げるとすると何ですか?

やっぱり『電波少年』ですね。テレビの面白さの本質はドキュメントだっていうことに気づかされた番組です。他にも当時、土屋さんが言ってたことでいまだに真理だなと思えることは多いです。「番組を作るときには“正義”が必要だ」とか「演者の感情の起伏と少しの成長がないと面白くない」とか、ほんと土屋さんから学んだことは大きかったので勝手に師匠だと思ってます。

  • (左から)『電波少年』プロデューサーの土屋敏男氏、MCの松村邦洋、松本明子=2010年の『電波少年』シリーズDVD化記念イベントより

――いろいろお話を聞かせていただき、ありがとうございました。最後に、気になっている“テレビ屋”をお伺いしたいのですが…

お会いしたことはないんですけど、日テレの『グレートコネクション』という特番をやってる演出の方の話が聞きたいですね。僕は新番はもちろん、気になる特番は極力チェックするようにしていて、去年見た中で一番面白かった番組です。数珠つなぎでいろんな人に会うという番組は昔からあるので、なかなか通らない企画だと思うんですよ。それが成立した経緯が知りたいですね。

そして、あの番組のすごさは、出てくる人たちのテンポがとても早いというところ。ロスチャイルドの末裔とかとんでもない人にたどり着くんだけど、その経緯をどんどん端折って見せてく。それが異常に面白くて。もし自分があの番組をやってたら、今までの経験から「ここはもっと丁寧に描かなきゃ」と強く言って、面白さのけん引力となってるあのテンポを潰した可能性もあると思い、反省したんです。経験も武器ですけど、それを100%ゴリ押しするようなことはやっちゃいけないって、勝手に学ばせてもらいました。どんな風にあの演出に至ったのかなど裏話が聞きたいですね。

次回の“テレビ屋”は…

日本テレビ『グレートコネクション』企画・演出 増田雄太氏(写真は『グレートコネクション』MCのバナナマン)