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ドラマにありがちなシチュエーション、バラエティで一瞬だけ静まる瞬間、
わずかに取り乱すニュースキャスター……テレビが繰り広げるワンシーン。
敢えて人名も番組名も出さず、ある一瞬だけにフォーカスする異色のテレビ論。
その視点からは、仕事でも人生の様々なシーンでも役立つ(かもしれない)
「ものの見方」が見えてくる。
ライター・武田砂鉄さんが
執拗にワンシーンを追い求める連載です。
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「スーパーでガリガリ君を買うな」

先日、あるコラムニストの方と「結局、中学や高校時代の経験に遡ってしまうのは、あの時の記憶はオリジナルなものである、という確固たる自信があるからだ」という話になった。このご時世、自分で考えたつもりでも、どこかのヨーロッパの美術館のロゴと近似していたりするものだから、確信を持って自分の着想がオリジナルなものだと宣言するのはなかなか難しい。美味しい海鮮丼を食べて、こんなに贅沢な食べ物はない、まるで海の宝石箱みたいだ……と巧い例えを思いついたとしても、「うわぁ、海の宝石箱や~!」とカメラに向かって叫び続けてきた先人がいるのである。

自分で思い立ったことがオリジナルかどうかをその都度精査しないと、いつだって盗用の疑いをかけられてしまう。そうならないように、自分の中から確実にオリジナルをほじくり出そうとすると、どうしても、情報が限られていた思春期に遡ることとなる。毎日通っていた駄菓子屋のオバちゃんが熱弁していた「近所のスーパーじゃ、『ガリガリ君』の当たりが出ないようになっているからね」という論拠に乏しいエピソードを素直に受け入れ、仲間内で共有していたことを思い起こす。「絶対にスーパーで買わねぇからな」と駄菓子屋に足繁く通ったこちらは、オバちゃんに乗せられていただけなのだが、「スーパーでは当たりが出ない」という通説が出回ったことは、自分の記憶としてしっかり根付いている。

「そんな青春時代ではなかった」と陳謝せよ

オリジナル体験が潤沢に詰まっている思春期へ遡り、その場の捏造に励んでしまうのは、一番の法度である。しかし、自分の頭ん中で、しょっちゅう、捏造しちまえよ、というお誘いがかかる。揺るぎない事実として「自分は東京郊外育ちである」「自分の学生時代は恋愛云々とは疎遠であった」があるにもかかわらず、田舎町の学校で繰り広げられる淡い恋模様を描く学園ドラマや映画を前にして、下手すれば涙を流したりするわけである。おそろしいことに、「うんうん、懐かしいなぁ」とか思っちゃっているわけである。この「うんうん」はまったくの虚偽なのだが、繰り返していると一丁前の強度を持ち始める。危うく記憶がアップデートされそうになるのである。

新宿まで出るのに40分程度の多摩地方で育ったくせに、1時間半に1本の無人駅で列車を待つ高校生カップルの淡い気持ちに、いつの間にか共感。ふと我に返り、頷いている自分を指差して、「ちょっとお前、そこに座れ」と声を荒げながら詰問する。そもそもお前は自転車通学だったじゃないか、そもそもお前はまともに女の子と喋れなかったじゃないか、友人にどんどん彼女ができたのに焦燥感もなく残された者たちだけで駄菓子屋に集っていたじゃないか。捏造を指摘された自分Bは自分Aに「すみません、そんな青春時代ではありませんでした」と素直に陳謝するのだが、自分Bは自分Aに対して、「でも、そういう気持ちになったことは本当なんだ……」とまだまだ女々しく訴えかけるのである。

上京を擬似体験する悪癖

上京した経験がないからこそ、上京というシチュエーションに滅法弱い。例を挙げると1:搭乗口まで友人や家族が見送りに来ている飛行場。2:離島を離れる学生が島民とカラフルな紙テープで繋がっているフェリー。3:高校生カップルの片方だけが上京し、片方は地元に残ることを決意した別れの無人駅。物語がこの3つのどの場面に展開していっても熱いものがこみ上げてくる。「1」と「2」については擬似体験がある。東欧に旅行へ出かけた際の成田空港で、長期の留学に出かける何人かの学生と親が搭乗口付近で雑談を交わしていた。そろそろ行かなくては、という時間が迫った頃、親の一人が突然甲高い声を出して泣き始めると、周りの親に派生し、そして子供たちのいくらかに派生し、なぜか6泊8日の武田にもほんわか派生したのである。ハグする相手はいなかったものの、上昇していくエスカレーターに向けて見えなくなるまで手を降り続ける親たちを、こちらも一緒になって最後まで見続けていた。

瀬戸内海の離島からフェリーで離れる時には、隣に、島を離れる20歳前後の男性がいた。フェリーから見下ろすと、親族と友人達が見える。島の友人達が照れ隠しのように「帰ってくんなよー」と叫び、隣の男性は「ざけんじゃねー」と叫び、親族が笑い転げている。いざ船が動き出すと、船の下からは「がんばれよー」との声が揃い始める。隣では男性がこみあげるものをおさえながら、声を出さず、手だけを振ってごまかしている。ここでもまた3泊4日の武田までこみあげてきたのであった。

そんなにみんな無人駅で恋人と別れてきたのだろうか

映画やドラマのシチュエーションは、隣接する体験を持つほうが感情移入しやすくなるのは確か。無人駅のホームで「わたしたち、遠距離でも大丈夫だよね」「うん、心配するな」と手をつなぐシーンはその感情移入をマックスに持っていく装置だが、なぜ、少しの隣接体験を持たない私まで、その無人駅のシーンに大きな共感を寄せられるのだろう。

カニかまぼこしか食べたことがない奴が美味しいカニの見分け方を述べ始めたら総スカンを食らうが、私は、この手の映画のエンディングを見せられると、いかにも体験したオレの立場として査定を始めるのである。

しかしながら、無人駅での上京シーンの普遍性は、カニかまぼこ的に強められてきたのではないかとの予測もある。これは共感してもらえるらしいと知ったシーンはいくらでも繰り返される。無人駅でのラストシーンはみんなが体験しているから繰り返されるのではなく、共感してくれるから繰り返される。とっても大雑把に換算すると、中高時代、駅というパブリックな場であっても関係を明らかにできるほどの男女関係を築いていた人など多めにみても20%、そのうち、片方が上京して離ればなれになる田舎のカップルはこれまた多めにみても20%、すさまじく雑な試算ながら、このシチュエーションを体験したのは4%という計算になる。しかしあのシーンは、4%というレア感など出さずに、「これ、普遍的なシーンですよね」という佇まいで迫ってくる。

みんな無人駅で恋人と別れてきたのだろうか

上京の数日前か前日に些細なことから喧嘩をしてしまい、独りで列車を待つ無人駅。見送りにきてくれるかなと期待しているものの、姿は見えない。鈍い音を立てて一両編成の列車がホームに入ってくる。おもむろに改札を見やるものの、やっぱり誰もやってこない。肩を落としながら乗り込み、ボックスシートの隅っこに体を落ち着け、ぼんやりと車窓を眺めていると、「……や、く~ん」「……つ、や君~」「たつや君~!!」という声が聞こえてくるではないか。年の離れた兄が運転する軽トラの助手席から身を乗り出して、必死に手を振っている彼女。「わたし、わたし、待ってるから。絶対に、待ってるから~」。車内でひとり涙を流す彼氏。

そんなシーンを見て、懐かしさを含ませて、涙を流している私。なんでだよ。一体、お前は、どこでその手の体験をしてきたと言うんだ。何回でも確認するが、お前は都内在住の自転車通学ではないか。

「中学や高校時代に起きたことに遡ってしまうのは、あの時の記憶がオリジナルなものだという確信があるから」。そう、確かにそうなのだ。しかし、あの時の記憶に侵入していく好都合な記憶というのもあって、最近、その力がやたらと強まっていることに、警戒を強めている。上京する自分を無人駅まで見送りにきてくれる健気な彼女、そのシーンにいくらかの共感を染み渡らせようとしている自分に喝を入れる。「ガリガリ君は駄菓子屋で買え、スーパーで買うな」と熱弁していた思春期の自分を忘れてはいけない。潮風と甘酸っぱい気持ちが溶け合う瞬間など一度たりともなかったことを、重ねて肝に銘じなければいけない。それなのに、ベタな青春モノはまた、無人駅を舞台にする。私はまた、偽りの共感をする。あの時、「待ってるからね」と叫んでくれた子のことを想う。あの子は今どこで何をしているのだろうか……まったく危うい傾向である。

<著者プロフィール>
武田砂鉄
ライター/編集。1982年生まれ。2014年秋、出版社勤務を経てフリーへ。「CINRA.NET」「cakes」「Yahoo!ニュース個人」「beatleg」「TRASH-UP!!」「LITERA」で連載を持ち、雑誌「AERA」「SPA!」「週刊金曜日」「beatleg」「STRANGE DAYS」等で執筆中。近著に『紋切型社会 言葉で固まる現代を解きほぐす』(朝日出版社)がある。

イラスト: 川崎タカオ