5月30日に仙石東北ラインが開業する。東北本線の松島駅付近と仙石線の高城町駅付近に単線の接続線を敷設して列車を直通させ、仙台~石巻間の所要時間を短縮するという。使用車両はディーゼルハイブリッド車両HB-E210系。東北本線は交流電化、仙石線が直流電化、両線を結ぶ接続線が非電化となっているからだ。
接続線を交流か直流のどちらかで電化して、交直流電車を走らせる案もあっただろう。たとえば接続線の中央から東北本線側を交流、仙石線側を直流とするような……。しかし、接続線は約400mと短く、高速で走行中に切り替わるには距離が足りない。実際のところ、「接続線電化+交直流電車」よりも「接続線非電化+ハイブリッド気動車」のほうが安上がりといったところだろうか。
短い区間だけど、この接続線の建設と列車の運行は電化方式が異なるために複雑だ。それにしても、JR東日本の東北地方の電化路線で、なぜ仙石線だけが直流電化なのだろう?
宮城電気鉄道時代は直流電化が一般的だった
当連載第299回でも紹介したように、仙石線の前身は宮城電気鉄道だ。開通は1925(大正14)年。当時の日本で鉄道の電化といえば直流電化方式だった。交流電化方式は実用化されておらず、選択肢がなかった。交流と直流のメリットやデメリットを比較して決めたわけではない。官営の東北本線は当時、まだ非電化だった。もとより直通計画もないし、官営鉄道に合わせる必要もない。
それなら電化しなくても、非電化で開業しても良かったではないか。仙台駅付近は地下鉄だったから、蒸気機関車を走らせるのは難しい。だが1920年代はガソリンカーが普及し始めていた。1919年に京浜電気鉄道で公開試運転が行われ、1921年には福島県の好間炭鉱で営業運転し、地方鉄道での採用が増えていた。
じつは、宮城電気鉄道は電車を走らせなくてはいけない事情があった。親会社が発電所を持っていたからだ。親会社は鉱山で亜鉛の精錬を行っていた。そのために大量の電力が必要で、水力発電所を2つ持っていた。しかし第一次大戦が終わると亜鉛の需要が減り、電力が余った。「売り込み先がなければ作ってしまえ」というわけで、仙台に電気鉄道を計画した。この親会社は亜鉛輸送のために鉄道を建設し、運営した実績があった。この鉄道は栗原電軌だ。後に栗原電鉄・くりはら田園鉄道となり、2007年に廃止されている。
つまり、宮城電気鉄道は最初から電車で運行する計画であり、だからこそ仙台駅付近を地下鉄にしたというわけだ。1944年に国有化され、その後、1961年に東北本線福島~仙台間が交流電化されたときも、直流電化から交流電化への変更は行われなかった。直通列車がなく、貨物列車も走らなかったため、変更の必要はなかったのだろう。むしろ首都圏で余剰となった直流電車の受け入れ先として重宝されたともいえる。
ちなみに当時、電力会社が電車を走らせる例は他にもあった。日本初の電車は東京電燈会社が内国勧業博覧会で走らせている。よく知られるところでは、1894年に京都市電の前身の京都電気鉄道が発電事業と一体となって発足している。また、京福電気鉄道は京都電燈の事業部門のひとつだった。