「国宝指定番号1番」の苦境

2015年8月1日現在、日本の国宝は建造物が222棟、美術工芸品が872点の合計1094件で、その全てに「指定番号」が付けられている。建造物で「1番」の指定番号を持っているのが岩手県平泉町にある「中尊寺金色堂」だが、これは国宝の中で最も素晴らしいものであることを意味しているわけではない。

「中尊寺金色堂」

戦後日本の文化財行政は、1950(昭和25)年の文化財保護法の制定に始まる。この年、法律に基づいてまず重要文化財の指定が行なわれ、翌年にその中から特に優れたものが選び出されて国宝に指定される。その際に全ての国宝に指定番号が付与されたのだが、その方法は所在地が北にある順番に付けるという単純なもの。中尊寺金色堂の指定番号が「1番」になったのは、この時に国宝に指定された建造物の中で、最も北に位置していたためであり、平等院鳳凰堂(10番)や法隆寺五重塔(22番)と比べて、文化的な価値が高いわけでも、保存状態が良好なわけでもなかったのだ。

実際のところ、国宝に指定された当時の中尊寺金色堂は、金箔が剥がれ落ち、螺鈿細工や漆の装飾が破損するなど痛みが激しかった。しかし、寺に修復するだけの資金はなく、文部省も予算不足を理由に「修復はできない」との一点張りだったという。

「すぐに修復しないと、金色堂は永遠に失われてしまいます」。中尊寺の僧侶だった佐々木実高が、毎週のように上京して文部省に直訴を続けたことでようやく予算が付き、1962(昭和37)年から修復が始まった。日本各地から金箔や漆工芸の第一級の職人たちが集められ、建物全体を解体して部材から修復するという徹底した修復作業は6年間に及び、中尊寺金色堂は往時の輝きを取り戻したのであった。

黄金に込めた平和への祈り

中尊寺金色堂は、奥州藤原氏の初代藤原清衡が、1124(天治元)年に建立した仏堂だ。一辺が5.5mで高さ8mという小ぶりなお堂は、床から扉、軒に至るまで金箔で覆われた「皆金色」。遥か南洋から運んできたという夜光貝を使った螺鈿細工の巻柱や透かし彫りの金具、柱には漆と金で菩薩像が描かれるなど、平安時代の高度で典雅な工芸技術で満たされている。清衡をはじめとした奥州藤原氏四代の亡骸が収められている須弥壇(仏壇)には、阿弥陀如来を中心に、観世音菩薩や六体の地蔵菩薩などの仏像が配されているが、その全が黄金の輝きを放っている。

イラスト:オシキリイラストレーション

藤原清衡が中尊寺金色堂で具現しようとしたのは極楽浄土だった。度重なる戦いで父親と妻、そして子供を亡くした清衡だったが、何とか東北地方を平定することに成功する。ようやく穏やかな日々送れるようになった清衡は、戦いで命を失った全ての人々の魂を極楽浄土に導き、永遠の平和を願って極楽浄土を地上に作り上げようとしたのだ。

「黄金の国」だった東北地方

「ジパングはカタイ(中国大陸)の東の海上1500マイルに浮かぶ独立した島国である。莫大な金を産出し、宮殿や民家は黄金でできているなど、財宝に溢れている。」

マルコポーロが「東方見聞録」の中で記した「ジパング」とは日本の事であり、黄金でできた宮殿こそが中尊寺金色堂だとの説が有力だが、藤原清衡はこれほどの金はどこから調達したのだろうか。

日本で金が産出されたという最古の記録は、奈良時代の天平21(西暦749)年に、現在の宮城県遠田郡涌谷町にあった陸奥国から朝廷へ黄金900両(約13kg)が献上されたというもの。東北地方は古くから日本の主要な金の産地であり、8~16世紀にかけては宮城県の気仙沼一帯で大量の金が産出されていいて、中尊寺金色堂の金もここから調達されたと考えられている。東北地方一帯を治めていた藤原清衡は、金の産出地の多くも手中に収めていたことから、朝廷に献上して味方に付けたり、貿易に利用して利益を上げたりすることで、権力基盤を固めて行ったのだった。

栄華を誇った奥州藤原氏だったが、源義経を匿ったことで源頼朝の攻撃を受け、1189(文治5)年に滅亡する。藤原清衡が築いた壮麗な建物群も灰燼に帰したが、中尊寺金色堂は戦火に巻き込まれることはなく、900年近い歴史を刻んできた。幾多の災難を乗り越えた国宝指定番号「1番」は、2011(平成23)年には「世界文化遺産」にも登録され、平安の世を照らした黄金の輝きを放ち続けている。

<著者プロフィール>
玉手 義朗
1958年生まれ。外資系金融機関での外為ディーラーを経て、現在はテレビ局勤務。著書に『円相場の内幕』(集英社)、『経済入門』(ダイヤモンド社)がある。