貨幣史上に輝く大判

「日本貨幣カタログ」(日本貨幣商協同組合刊)は、古銭から現代の記念コインに至るまで、日本で発行された貨幣や紙幣を網羅したものだ。由来や発行枚数などの基本的な情報に加えて、「和同開珎」は最も高いもので550万円、「天保大判」は保存状態が「上」なら1000万円、「東京オリンピック記念1000円硬貨」は「完全未使用」なら1万円などと、参考価格も記されている。

カタログに記載されている膨大な貨幣や紙幣の中で、飛び抜けて高い参考価格が付けられているのが「天(てん)正菱(しょうひし)大判(おおばん)」だ。保存状態が「下」のものでも7000万円、「中」になると1億円で、さらに状態の良い「上」については価格が記されていない。取引された実績がなく、見当もつかないというのだ。

天正菱大判は、豊臣秀吉の命で作られた日本の貨幣史上初の大判で、天正16年(1588)から鋳造され、上下に菱形の極印が打たれていることからこう呼ばれている。重さは十両(165グラム)で、品位は金730/その他270と極めて高い。表面には「天正十六」などと鋳造された年号と重さを示す「拾両」の文字、さらに「後藤」の銘と花押が墨書きで記されている。「後藤」は足利将軍家に仕えた彫金の名門「後藤家」の銘で、天正菱大判を手がけたのは4代目の後藤光乗の弟の祐徳であった。

「日本銀行金融研究所貨幣博物館所蔵」

天正菱大判は貨幣として流通させるためのものではなく、武勲を挙げた家臣への恩賞や、朝廷や公家への贈答用として作られたもの。このため鋳造数は少なく、存在が確認されていたのは「日本銀行貨幣博物館」や「東京国立博物館」、大阪の「造幣博物館」などの博物館に収蔵されている5枚だけとされてきた「お宝」であり、その価値が高いのも当然と言えるだろう。

金を愛し、活用した豊臣秀吉

天正菱大判を作った豊臣秀吉は、金の魅力に憑かれた武将だった。佐渡の金山を直轄にするなど、各地の金山を「公儀」を理由に支配下に置いた秀吉は、手に入れた金で大坂城や聚楽第、伏見城などの居城を金箔で覆い、その眩い輝きで人々を圧倒した。また、茶室や風呂場、さらには「雪隠(トイレ)」まで金で造り、金の蒔絵を施した武具に、金の刺繍を入れた陣羽織など、身の回りも金で固めるなど、権力の大きさを金によって示そうとしたのだった。

その一方で秀吉は、集めた金を派手にばら撒いた。その一例が聚楽第で行われた「金賦(きんくば)り」で、「諸侯に金銀を施さる。聚楽門内二町に金銀第を積む。…家康へは金三千両銀一万両…」(「豊臣記」)と、集まった家臣や朝廷、公家らに惜しげもなく金や銀を与えて、取り込んでいった。秀吉はまた、「本能寺の変」を聞き、備中高松城攻めから京都に戻る際、手元にあった全ての金や銀を家来たちに与えて士気を鼓舞した。これによって、「中国大返し」と呼ばれる強行軍を実現させて、明智光秀を討つことに成功している。

天正菱大判も秀吉が金の力を利用するために作ったもの。金の持つ「魔力」を味方に付けることで、豊臣秀吉は天下統一の道を駆け上がって行ったのだ。

オークションに登場した天正菱大判

"THE RAREST & MOST PRESTIGIOUS JAPANESE GOLD COIN THE FAMOUS TENSHO HISHI OBAN THE FIRST OBAN IN JAPANESE MONETARY HISTORY"

2015年5月22日、スイスの老舗古銭商 「Hess Divo」のオークションに、6枚目の天正菱大判が現れた。「現存が確認されている6枚のうちの1枚。5枚は博物館に収蔵されていて、オークションに登場するのは初めて」と紹介された天正菱大判。オークションは80万スイスフラン(約1億400万円)で始まり、その価格は瞬く間に上昇し、最終的には110万スイスフラン(約1億4300万円)で落札された。落札者については一切公表されていないが、「資金豊富な中国人富豪ではないのか?」、「日本文化に憧れるアメリカ人のIT企業経営者の可能性がある」などと、様々な憶測が飛び交っている。

6枚目の天正菱大判は今、誰の手元にあるのだろうか? その眩いばかりの輝きは、戦国の世はもちろん、現代においても少しも衰えることなく、人々を魅了しているのである。

<著者プロフィール>
玉手 義朗
1958年生まれ。外資系金融機関での外為ディーラーを経て、現在はテレビ局勤務。著書に『円相場の内幕』(集英社)、『経済入門』(ダイヤモンド社)がある。