マクラーレンといえば、誰でもまずF1を思い浮かべるだろう。1988年、ホンダエンジンを搭載したマクラーレンは年間16戦中15勝を挙げた。ドライバーはもちろんアイルトン・セナ。このときのF1ブームは社会現象と呼べるほどだったから、40代より上の人なら、モータースポーツにまったく興味がなくてもマクラーレンの名は覚えているはずだ。

今年3月のジュネーブ・モーターショーで公開されたマクラーレン「650S クーペ」「650S スパイダー」

そのマクラーレンが、本格的にロードゴーイングカーの分野に進出してきた。ライバルはもちろんフェラーリだ。マクラーレンのロードゴーイングカーは、グループ企業で1990年に設立された「マクラーレン・オートモーティブ」(旧称マクラーレン・カーズ)が担当している。この会社自体はすでに四半世紀の歴史があるわけだが、1994年に「マクラーレン・F1」を発売したのと、2003年にメルセデス・ベンツの「SLR マクラーレン」の生産を担当したのが、数年前までの実績のほぼすべて。生産モデルのパフォーマンスはすばらしくとも、ビジネスの規模としては細々としたものだった。

ウソかマコトか、ランボルギーニの2倍売る計画

ところが、2010年にその企業規模からは考えられないような莫大な投資を行い、最新鋭の新工場を建設。2011年に久々のニューモデル「MP4-12C」を、2012年に約1億円のプライスタグを付けた「P1」を発表した。さらに驚くべきことに、今後数年間で年間4,000台ほどの規模で生産を行うと発表したのだ。

4,000台とは、トヨタ・プリウスでいえば3日分の生産台数にも満たないが、ランボルギーニでいえば2年分だ。つまり、この分野に本格参入したばかりのマクラーレンは、数年でランボルギーニの2倍にまでその規模を拡大しようとしている。マクラーレンにとって最大のライバルとなるフェラーリは、2013年に約7,000台を生産している。ただし、フェラーリのラインアップはランボルギーニやマクラーレンの比ではない。ミッドシップ2シーターだけでなくフロントエンジンのモデルもあるし、4シーターだってあるのだ。

年間4,000台を達成するには、ラインアップの拡充が絶対条件。マクラーレンはどうやら、これから矢継ぎ早にニューモデルを投入してくるようだが、その尖兵ともいえるのが「650S」だ。ラインアップでの立ち位置としては、「P1」と「12C」の中間となる「650S」だが(蛇足だが、マクラーレンはネーミングに一貫性を持たせるつもりはないのだろうか?)、すでに限定台数を完売している「P1」はラインアップにないのと同じとなると、実質的に主力モデルとして、マクラーレンの販売を牽引していくのが「650S」の任務といえる。

レーシングカーを作れるなら、スポーツカーの名車も作れる!?

マクラーレンには、半世紀にわたってF1で戦ってきた実績がある。しかも、単に戦っただけではなく、通算180回以上も優勝した。とんでもない技術力を持っていることは想像に難くない。そんなマクラーレンなら、公道を走るスーパーカーを作ってもすぐにものすごい名車を作れる……だろうか?

「650S」は4月に日本でもお披露目された

多くのスポーツカーはレースの技術をフィードバックして作られている。それは間違いない事実だ。しかしその一方で、レーシングカーとスーパーカーを含むスポーツカーの間には、いくつもの決定的な違いがある。非常に誤解を招く言い方、かつ恐れを知らぬ言い方をすると、「レーシングカーを作るのは簡単だが、スポーツカーを作るのは難しい」。

レーシングカーはただひとつ、レースでの勝利だけが目的だから、何をめざすべきか悩む必要がない。それを実現するための技術は最高に複雑で困難だとしても、クルマづくりの考え方としては簡単、というかシンプルなのだ。一方、スポーツカーはどうか。レーシングカーが唯一、速さを求めるのに対して、スポーツカーは楽しいこと、ドライバーを喜ばせることが絶対的な目的といえる。この点だけでも、レーシングカーとスポーツカーは根本的に違うことがわかるが、問題はそれだけではない。

どうすればドライバーが喜んでくれるか? そこには絶対的な指標も、法則も、ルールもないのだ。レーシングカーなら、「速いクルマを作る」という目的がはっきりしているが、スポーツカーでは「どんなクルマを作るか」、そこから悩まなければならない。

速さはドライバーを喜ばせる絶対条件といえるだろう。スーパーカーはとくにそうだ。しかし、ただ速いだけでは足りないのも明らか。速くて、かっこよく、個性的で、快適でなければならない。しかも、スポーツカーの世界には、大して速くないのに絶大な人気を呼び、名車とされたモデルもたくさんある。速さですら、揺るぎない基準ではないのだ。

どうすればドライバーが喜ぶか? 世界で一番わかっているメーカーは、やはりフェラーリだろう。「販売見込み台数より1台少なく作れ」などというのは、エンジニアリングにとどまらず、ドライバーの心情までもフェラーリが熟知していることを表している。ランボルギーニはここ数年、デザインと「ハイテクな感じ」にこだわっているが、これも独自にその答えを見つけたことによる戦略だろう。ポルシェにしても、真面目そうに見えて、じつはドライバーのどこをくすぐれば笑い出すか、よく知っているメーカーだ。

では、マクラーレンはどうか? 「650S」はとびぬけて速く、しかも乗り心地がよく、快適で、装備は日本車が顔色を失うほど充実している。デザインだって、他のどのモデルにも似ていなくて、しかもスーパーカーらしいかっこよさをちゃんと具現化している。CFRPのシャシーなどの内容から見れば、価格は安いといえるものであり、燃費性能も優れている。

こうして見てみると、マクラーレンはレーシングカーとスポーツカーが根本的に違うことをちゃんと理解しているようだ。速いだけではない。公道を走るスーパーカーとして、つくりに隙がない。ただ、それでも安心とはいえない。スーパーカーを購入するような人には、出来の良いクルマを前にすると、「ツマラナイ」などと言い、より完成度の低いモデル(別の言い方をすると個性の強いモデル)に流れていく人が多いのも事実。このあたりが、レーシングカーよりスポーツカーが難しいということなのだ。

そうしたレーシングカーとスーパーカーの狭間にあるつかみどころのない違いを、マクラーレンがどこまで会得しているか? それは「650S」の長期的な評価や、今後のニューモデルを見ないとわからないだろう。

それにしても、「年間4,000台」という数字である。「12C」は売れている。「650S」だって売れるに決まっている。しかし、それでも4,000台はどうか? 夢の中か映画のセットとしか思えないマクラーレンの新築工場の豪華絢爛さを見るにつけ、「650S」は非常に重いものを背負わされていると感じる。

マクラーレン「650S スパイダー」「650S クーペ」