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初恋、初体験、結婚、就職、出産、閉経、死別……。
人生のなかで重要な「節目」ほど、意外とさらりとやってきます。
そこに芽生える、悩み、葛藤、自信、その他の感情について
気鋭の文筆家、岡田育さんがみずからの体験をもとに綴ります。
「女の節目」は、みな同じ。「女の人生」は、人それぞれ。
誕生から死に至るまでの暮らしの中での「わたくしごと」、
女性にとっての「節目」を、時系列で追う連載です。
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トムヤムクンよりフカヒレを

初めての海外旅行は、7歳のときだ。父親が仕事の関係でタイに単身赴任していた。小学校二年生の夏休み、母親と幼稚園児の妹と三人で、父の暮らすバンコクを訪ねることになった。パスポートの準備など旅行の手配はすべて大人任せだったから、行く前のことは何も憶えていない。初めて飛行機に乗って空を飛ぶ興奮も、あまり記憶にない。でも、初めて外国に到着してからのことは、とても鮮明に憶えている。すべてが目新しかった。

まず最初に驚いたのは、父親がメイド付きで庭にプールのある豪邸に暮らしていたことだ。会社が用意したごく一般的な「社宅」なのだが、東京のウサギ小屋に残されて暮らす母娘三人にしてみれば、父が一人でこんなに優雅な生活を送っているのは、すごく不公平な気がした。母親は鼻息荒く「今夜はフカヒレ専門店に行くわよ!」と宣言した。「東京じゃ食べられないんだから!」というわけで、華僑が経営する外国人向けの高級レストランで、私は生まれて初めてフカヒレを食べた。大人たちが口々に言う「物価が安い」国というのは、なんと素晴らしい国だろうと思った。

フカヒレ専門店から少し歩いてタクシーに乗り込むまでの間に、道端で何人もの物乞いを見た。これが二番目の驚きだった。ボロをまとって痩せ細った身体を地べたに転がす彼らの中には、子を抱いた母もいれば、手足の欠損した者もあった。イエス・キリストが手かざしで治したという貧しい病人たち、あるいはマザー・テレサが看取ったという死を待つ人々、子供向けの絵本に描かれた、大昔の話のように思えたそれらが、目の前にあった。たらふくフカヒレを食べた私は、大人たちから、彼らにその場限りの施しを与えてはならないと言われた。これもまた初めての海外だった。

アユタヤやチェンマイ、プーケット、行く先々で土産物屋が声をかけてきた。一昔前の人気歌手やテレビ番組、あるいは戦国武将などの名を連呼しながら、ニホンジン、コレ好キ、ミンナ買ウ、と、まったく欲しくないものを薦めてくる。異国の地で見知らぬ人から片言の日本語で話しかけられるのは、不思議と嬉しいものだ。きっと以前にもここへたくさんの日本人が来て、彼らに少しずつ新しい日本語を教え、去っていたのだろう。その見えない足跡のようなものが面白かった。

一方で、観光名所の看板に、タイ語と英語のWELCOMEのほか、「いらつしかいませ」などと書いてあるのには興が削がれた。日本語で話しかけられると嬉しいのに、店の看板に日本語があるのは嬉しくない。子供だからその気持ちをうまく説明できなかったが、つまり「異国情緒が感じられない」ということだ。日本と似たような環境で日本と同じような体験をするより、ここでしかできないことをして、読めない看板や伝わりにくい言葉のあやふやさで、存分にコミュニケーション不全を味わいたい、と思っていた。

金髪碧眼、バナナの皮

リゾートホテルにも何泊か滞在した。ヨーロピアンスタイルの建築に、アジアンテイストを加えたインテリア、見渡す限りの西洋人観光客。ホールでは舞踊や影絵芝居などのパフォーマンスもあり、郷土菓子の屋台も出ていて、ディズニーランドのようだった。キッズ向けの催し物の前で、一人で佇んでいる女の子がいた。絵に描いたような金髪碧眼、水色のワンピースを着て、年格好は私と同じくらいだ。声をかけ、オモチャを分け合って一緒に遊んだ。英単語を組み合わせて話しかけると、無口なその子がにっこり微笑む。「私の英語が通じてる!」と嬉しかった。初めての海外旅行で、青い目の友達と仲良くなったら、日本へ帰ってからも文通ができるかもしれない。国際人への第一歩だわ……。

ほどなくして母親らしき白人女性があらわれ、水色のワンピースの彼女を猛然と私から遠ざけ、離れた場所へ連れて行ってものすごい剣幕できつく叱っていた。母親の早口はまったく聞き取れなかったけれども、何を叱っているのかは幼い私にも不思議と理解できた。「あんな子と遊んじゃいけません! 何かされたらどうするの! 怖い目に遭うところだったのよ! どうして逃げなかったの!」……アイムソーリー、ママ、と小さな声が聞こえ、私のペンパル候補は名前も告げずに姿を消した。

私の母親も、付かず離れずその光景を見ていたようだ。「あいつらオーストラリア人でしょう、本当に腹が立つわ、白豪主義者めが!」と、烈火のごとく怒っていた。「あなたが何一つ悪いことをしていないのに、あなたがそこに居るだけで責められる、目も合わせない、話しかけようともしない。よく覚えておきなさい、これが差別よ」と母は言った。「あなたとあの子が仲良く遊びたいと思うなら、あの母親みたいな連中を地球上から追い出さなくちゃいけないわ。有色人種のあなたと、白人のあの子が、二人で一緒にそれをするのよ。次に同じ仕打ちを受けたら、もっと怒って、戦いなさい!」。

テレビでは連日「アパルトヘイト」のことを報じていた。遠い国で、黒人たちが白人と同等の権利を求めている。そのために殺されてしまう人もいるのだと。しかし貿易相手国である日本の人々は「名誉白人」扱いなのだそうだ。バナナと同じで、顔は黄色いけど、中身は白い。なんだ、だったらセーフじゃん、黒人と違って私は殺されないんだもの。そんな幼い慢心を、手の届く距離で受けた実際の仕打ち、友達になれたはずの女の子を失った悲しみが、すっぽり覆い尽くしていった。「次」なんて二度と来なければいいのに。

ディズニーランドみたいなリゾートホテル、汚物のように私を処理した白人の母親、宝物のように私たちを扱った父の社宅のタイ人メイド、フカヒレ専門店の外にいた半身のない物乞い、お金持ちの西洋人に植民地主義的悦楽をもたらすユートピア、小金持ちの日本企業が揉み手しながらゴリゴリ進出するアジア、黄金色に輝く寺院、ドブ色をした聖なる川、100円相当で100円以上のものが買える通貨、戦争のとき身一つで国を捨ててきたのだと微笑む元ベトナム人、見たこともない果物があちこちに生っている森、明らかに藤子不二雄が描いたものではないドラえもん、ただ言葉だけが通じない人々、ただ心だけが通い合えない人々、生まれ育った場所でそこが世界の中心だと信じて生きて死ぬ人々、故郷を離れて世界中を旅して回る人々。

すべて、たった数週間、たった一つの国を訪れただけで、初めての海外旅行で見聞きしたことだ。盛りだくさんの旅だった。

たとえ私が見ていなくても

二度目の海外旅行は9歳のとき、同じように夏休みを利用して、北米大陸の各地を回った。今回も母娘三人、両親の学生時代の友人を訪ねて歩く旅だった。私はもうだいぶ英語がわかるようになっていた。学校で習ったわけではないけれど、身振り手振りや抑揚、声質などを注意深く観察していれば、どんなことを言っているのか、だいたいの見当はつく。 東海岸にある、とある高級住宅地に滞在したときのこと。両親の親友の実家にあたる豪邸で、一階から最上階まで真っ白に塗られた吹き抜けが見事だった。普段は年老いた母親が一人で暮らす、そのお屋敷の優雅な吹き抜けに、「どうして私の大事なゲストルームを、あんな小汚いアジア人の母娘に使わせてやらなくちゃいけないの! おまえが連れてくる友人は昔からロクなのがいないわ!」と怒鳴り散らす老婆の声が、とてもよく響いた。吹き抜けの最上階にある手すりの間から、それを眺めていた。

日本に帰国してみると、東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の犯人が、現行犯で逮捕された、という報道にびっくりした。1989年夏の出来事だ。今田勇子と名乗っていたのはやはり男性で、名前を宮崎勤といった。首都圏の小学校に通う女児だった私たちは、一連の事件のために非常な緊張を強いられていた。二学期からはあの窮屈な集団登下校が終わるかと思うと、ホッとする気持ちだった。

もう一つ、9歳の私は、別のところでホッと安堵していた。それは、「私が留守にしている間にも、日本という国は、ちゃんと回っている」ということだ。私がアメリカやカナダに余所見をしていたって、警察はちゃんと働いて宮崎勤を捕まえるし、平成元年はガンガン前へ進んでいる。なんだか拍子抜けした気分だった。

眠るために目を閉じたら、それで世界が消えてなくなってしまうのじゃないか、と不安で寝られなくなるような、そんな年頃だ。私がちゃんと見つめていなければ、日本はどうにかなってしまうと思っていた。少し前、天皇陛下の容態が思わしくないと聞いたときもそればかりが気になって、「昭和」が終わる瞬間を見逃してはなるものかと、「今年中かな、来年になるかな?」と聞いて回っては大人たちに「不謹慎だ」と怒られる子供だった。

でも別に、私一人が居なくたって、私が見つめていなくたって、日本は変わらずに動いているんだ、なぁんだ。……現在に至るまでの私の、この国への決定的な無関心の端緒となる感覚も、海外旅行で培われたものといって過言ではない。

なんでも見てやろう

プーケットの海、カナダの国立公園、あるいはスミソニアン航空宇宙博物館、地球には、宇宙には、もっと広大な空間が広がっていて、そこにあるすべてのものが、たとえ私が全部をちゃんと見ていなくたって、同時並行的に、どんどん未来へ向かって進んでいる。そして、自分がどこの何にフォーカスして見つめるかは、自分で好きに決めていいんだ。  そう気づいてから、家のトイレに貼ってある世界地図を眺めるのが楽しくなった。世界各国の国旗と首都を暗記するゲームに熱中した。狭苦しい子供部屋の勉強机の脇には、アフリカの地平線を写真におさめたポストカードを貼った。この見知らぬ地平線が、我が家のこの子供部屋まで、ずっと続いているのだ。「世界は広い」「世界は近い」と思い出させてくれる写真なら、何でもよかった。

その翌年に弟が生まれ、海外旅行はしばらくおあずけとなったが、ベルリンの壁が崩壊するのも、湾岸戦争のライブ中継も、「世界は広い」「世界は近い」と唱えながら見ていた。宮崎勤事件で大騒ぎの夏休みが終わった二学期から、学校の教室では特定の生徒をターゲットにした迫害が始まった。「オタクは汚い犯罪者だから、私の使う椅子には座るな」。黒人専用座席みたいだ。なんだ、だったらアウトじゃん、ここにだって差別はあるじゃん。その気になれば、私はどんな地平線までも逃げて行ける。しかし、ただ逃げ回るだけでは、行った先でまた差別主義者とかち合うだけだ。「次」こそは怒って戦えと言うのなら、私の「次」は、「今」なんだ。

「世界は広い」「世界は近い」初めてそう知ったときに感じた、その「世界の広さ」や「世界の近さ」のイメージは、その人の人生に、一生つきまとうものだと思う。日本しか知らずに育った人は、日本だけをひたすらに見つめて、大人になっても日本の外にはなかなか目を向けようとしない。自分がちょっとでも目を離したら、日本が世界に取り込まれてしまうのではないかと怯えて、用もないのに日の丸の旗を掲げたがる。

「あなたたちのために、なるべく早いうちに、海外へ連れて行こうと思ったのよ」と父母は言った。もしもこれから私が子供を作ることがあったら、同じことを考えるだろう。行き先なんか、どこでも構わない。まだ行ったことのない場所が、自分の踏みしめるこの地面とつながっている。ここにはないものが、そこにはある。その実感を得る瞬間は、早ければ早いほどいいと、私もまた思っている。

<今回の住まい>
初めてアメリカを旅して愕然としたのは、土地の余りっぷり、家のデカさだった。大都会の小さなアパートメントで暮らす人に親近感を抱いていたら、車でちょっと行った郊外に本宅があって、我が家がすっぽり入るほどの「趣味の部屋」を持っている、といった調子だ。そんななか、カナダで泊まったビジネスホテルには屋根裏のようなメゾネットがあり、子供用エクストラベッドを置いて眠った。低い天井が東京のせせこましい家の二段ベッドのようで懐かしく、逆にホッとしたのを憶えている。

<著者プロフィール>
岡田育
1980年東京生まれ。編集者、文筆家。老舗出版社で婦人雑誌や文芸書の編集に携わり、退社後はWEB媒体を中心にエッセイの執筆を始める。著作に『ハジの多い人生』『嫁へ行くつもりじゃなかった』、連載に「天国飯と地獄耳」ほか。紙媒体とインターネットをこよなく愛する文化系WEB女子。CX系の情報番組『とくダネ!』コメンテーターも務める。

イラスト: 安海