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初恋、初体験、結婚、就職、出産、閉経、死別……。
人生のなかで重要な「節目」ほど、意外とさらりとやってきます。
そこに芽生える、悩み、葛藤、自信、その他の感情について
気鋭の文筆家、岡田育さんがみずからの体験をもとに綴ります。
「女の節目」は、みな同じ。「女の人生」は、人それぞれ。
誕生から死に至るまでの暮らしの中での「わたくしごと」、
女性にとっての「節目」を、時系列で追う連載です。
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「誕生」、それは記憶にない「節目」

人生の節目、と言われて誰もが真っ先に思い浮かぶものといえば、たとえば学校の卒業、結婚や出産、あるいは家族の死、などだろうか。人によっては、引越や転校、大恋愛、海外旅行、就職して任された大きな仕事、資格取得やコンクール入賞、または思いきって高価なものを購入したとか、憧れのスターに握手してもらえたとか、ごくごく個人的だけど本人にとっては特別な、いろいろな出来事を連想するはずだ。

同じ地球に生まれて育って、似たような子供時代を過ごしてやがて社会に出て、みんな等しく普通の人生を歩んできたつもりでも、どうしてこんなに趣味嗜好や思想の違う、てんでバラバラの人間が形作られていくのか。その秘密は、こうした「節目」に隠されているのかもしれない。

人生の分岐はあまりにも細かくて膨大であるがゆえに、すべての点において私と同じ選択をして道を辿った他人は一人もいない。生年月日どころか遺伝情報までそっくり同じ一卵性双生児であっても、そうした違いが積み重なれば、まったく別の人間に成長していく。どんな充実感や成功体験にも、あるいは、羨望や嫉妬やこじらせにも、元になった「節目」がある。天に定められた運命を信じるより、通過してきた「節目」を自分で数えてみたほうが、これから先のことだって見渡せるんじゃないだろうか……?

「節目」を目印に過去と未来を考察するこの連載、第一回は、「誕生」だ。よく言われることだが、新しい生命は、生まれてくるところを「選べない」。この世に生まれ落ちた瞬間というのは、たしかに大いなる「節目」ではあるが、同時に私自身の「選択」ではない。

たとえば私の場合。今にして思えば非常に恵まれた時代に、さして裕福でも貧乏でもない中流家庭に生まれた。祖父母にとっては初孫で、蝶よ花よと甘やかされて育った。「よいおうちにお生まれで」と言われても、その「よさ」は私が選んだものじゃない。きっと「悪さ」も同じだ。なぜここに生まれてきたのか? なんて、悩んでも詮無いことなのだ。

自分ではまったく記憶にない、幼い頃の写真を見る。ベビーベッドに備え付けたガラガラ飾りを見上げる姿、裸におむつでつかまり立ちをする姿、親戚の家で1歳の誕生日を祝う姿。「これがあなたの小さかった頃よ」と言われて育ったが、そう自覚できたことは一度もない。思い出は簡単に捏造できるもので、ベッドメリーに降り注ぐ窓の外の木漏れ日、つかまり立ちの掌にかかる身体の重み、バースデーケーキの味までよみがえりそうになる。もちろん、そんなはずはない。他人から何かを植えつけられて、すっかり信じているだけなのだ。

「誕生」から次の節目までというのは、自分のものであって、自分のものではない時間である。のちに「私」となる人間は、そこに紛れもなく存在している。けれどもその私は、私であって私でなかった。「自分が存在することに疑問を持たずにいられた時間」と言い換えることができるかもしれない。問いも答えもなく、ただそこに存在するだけで肯定されていたひととき。とても短いが、誰にでも必ずある時間だ。

鏡の奥の「私」でない「私」

手塚治虫の漫画『マコとルミとチイ』は、今まさに誕生する瞬間の赤ん坊が何者かと会話する場面から始まる。姿の見えないこの何者かは、「指をくわえている間はわたしとコンタクトがとれる」と言って、むずかる赤子を下界へ送り出す。行き着いた先はベレー帽をかぶったマンガ家の家庭、マコトと名付けられたこの長男坊は怪獣とホラー映画が大好きな少年に育つ。そして成人して立派なヴィジュアリストに……なるところまではさすがに描かれていないが、とにかくそんな育児ものの作品である。

漫画の神様が生み出した数々の被造物の中でも屈指の萌えキャラにして最強のショタッ子であるご令息、もといマコたんであるが(私もこんなお兄ちゃんが欲しかった!)、「赤子は指をしゃぶる間、創造主とつながっている」という設定も素晴らしい。マコは、大人への意思疎通が叶わないとき指をしゃぶり、天界へ不満をぶつける。創造主は彼をなだめて「そろそろ回線を切るぞ」と伝え、親に欲求や主張を直接通せるようになったマコは、指しゃぶりという交信手段を徐々に使わなくなっていく。

よく、何もないところに向かって笑う幼児を「天使が見えている」などと言うけれど、かつて見えていたそれを成長とともに忘れていく過程について、こんなふうにうまく描いたものは少ない。ある日突然、天使が消えてしまうのではなく、人間同士や自分自身と接する機会が増えることで、指しゃぶりのオン/オフを切り換えることで、天使と接する時間がだんだん減っていくんだよ、と。

人は、人間世界に即した「自己」を得ると同時に、何かを失う。失ったものが何だったのかは、すでに「自己」を得てしまった我々には、もう思い出せない。だが、「まだ私ではなかった頃の私」も、やっぱり同じ「私」なのだ。それでは、どうにかして「まだ私ではなかった」感覚を、もう一度「思い出す」ことはできないだろうか? 昔、そんな実験を繰り返していたことがある。

方法は簡単で、鏡の中の自分を長いことじーっと眺めるだけ。するとなんだか、自分が自分ではないように思えてくる瞬間が訪れる。見慣れた顔が顔でないように見える。ズームした毛穴が毛穴でないように見える。そもそも「顔」って何なのだろう? このブツブツした穴だらけの肉塊は、いったい何なのだろうか? ……とまで思えればしめたもので、どんどん「私」がゲシュタルト崩壊していく。薄暗くした部屋の片隅で、家族が呼ぶ声にも反応しなくなる。呼ばれる「名前」とは何か、聴こえる「音」とは何か、その「聴覚」は誰のものか? この身体につながった手足は、本当に「私」の思う通り動くだろうか? 本当に? と何度も問うてみると、自分で自分に軽く金縛りをかけられるようになったりもした。

目のピントが合ったまま、世界からピントがズレていくような感覚。覚醒したまま夢に落ちていくような感覚。私はこれが昔から嫌いではなかった。自分の頭で考えて行動している間は、自分で自分がわからなくなることがしょっちゅうだ。反対に、頭をからっぽにしてみると、自分という器のことがよくわかる。すわ幽体離脱か臨死体験か、と心配してみようとも、不随意筋は休みなく動き、全身を血が巡っている。ああそうか、いつかどこかで死ぬまでは、どんな不満があろうとも、この「私」で生きるってことなんだな。と、わからなくなりかけていた自分に、ゆっくり折り合いがつく。そのポイントを探るようにして、鏡の中を無心でじーっと覗いているのが好きだった。

指をしゃぶって見えない何者かと交信している間、そうしてふとくわえていた指を離す瞬間、物心つく前の赤ん坊も、こんな気分なのではなかろうか。

誰が「私」を作ったか?

トニー賞を受賞したミュージカルコメディの名作『ラ・カージュ・オ・フォール』に「I Am What I Am」という曲がある。ゲイクラブの花形スターが「私は私、そう言えない人生なんて価値がないわ」と歌い上げる力強いナンバーで、セクシュアルマイノリティのみならず、さまざまなパフォーマーがこの歌を愛し、歌い継いでいる。

私もこの曲の「I am my own special creation」という歌詞を聴くたびに奮い立つ一人だが、では、なぜそう思うのかと問われると、立ち止まってしまう。キリスト教世界における「天地創造」や「被造物」を想起させる「creation」という言葉を、自分自身に使ってみたいような、そこまでの人生を築き上げてはいないような。己への確信よりも、そうきっぱり言いきれる人々への憧れのほうが、まだまだ強い。

「どこかに通じてゐる大道を僕は歩いてゐるのぢやない/僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」という高村光太郎のほうが、今の自分にはしっくりくる。というか、そんなもの、思春期の頃からとっくにしっくりきていた。だからこの詩は、学校の国語の教科書に載るのだ。「自分で自分が道をつけつつ進み得たという自覚があれば、私自身は満足するつもり」であると語る夏目漱石の講演録とともに。

それでは、今まで歩んできた後ろに出来ている「道程」ならば、すべて私自身の「creation」と呼べるかというと、これまた悩ましい。真っ白な紙にゼロからフリーハンドで線を引いたと言える人生経験は、幾つあるだろう。親の真似をして言葉を覚え、師に勧められるまま進学し、誘いに乗って職を転じ、お座敷に呼ばれたところで来た球を打つ。いつも周囲に補助線を引いてくれる存在があった。「点と点をつなぐだけの簡単なお仕事」というのが、正直な実感である。

ほとんどが他者から与えられ、たまには自分で見つけたりもした、点と点とを線でつないだ、デコボコの道。古来、その道程のガタガタ具合を数えて辿って、「人生の節目」と呼ぶ。「節目」自体にオリジナリティがなくても、「選択」が人生を作り上げ、私と、私以外とを、はっきり区別している。

「I am my own special creation」と言えるようにはまだまだ修行が足りないが、生まれてから死ぬまでの間に形成される、いろいろな「節目」について考えていきたい。数多くの選択肢からたった一つを選んだ気がしても、よくよく思い返せば「0(しない)か1(する)か」という小さな小さな切り換えの連続だった。どちらかを捨て、どちらかを選ぶ。そのとき、何を思っていたか。上手に思い出せるだろうか。

<著者プロフィール>
岡田育
1980年東京生まれ。編集者、文筆家。主な生息地はTwitter。2012年まで老舗出版社に勤務、婦人雑誌や文芸書の編集に携わる。同人サークル「久谷女子」メンバーでもあり、紙媒体とインターネットをこよなく愛する文化系WEB女子。「cakes」にて『ハジの多い人生』連載中。CX系『とくダネ!』コメンテーターとして出演中。2013年春に結婚。

イラスト: 安海