棋界に現れた超新星・藤井聡太。歴代5人目の中学生棋士、そして最年少棋士として話題となった藤井は、デビュー後負けなしの29連勝をはじめ数々の記録を打ち立て、国民的スターへと昇りつめた。では、藤井をのぞく4人、加藤一二三、谷川浩司、羽生善治、渡辺明の修行時代、デビュー後の活躍はどんなものだったのだろう。数々の資料をもとに検証し、藤井聡太のそれと比較していく。

中原の逆襲 羽生世代の襲来

谷川浩司九段

加藤一二三を破り、最年少名人となった谷川浩司。

中学生で棋士になり、ほぼノンストップで棋界の頂点に立ったとなれば、これからは谷川がタイトル戦線を席巻する「谷川時代」が来るだろう、誰もがそう考えたのは自然なことだったでしょう。

しかし、七冠あるタイトルのうち過半数である四冠制覇、他棋戦での優勝など十分な実績を残し、トップに立った時は確かにあったものの、名人連続13期を含む通算18期、10年もの間タイトル戦に出突っ張りだった大山康晴が築いた「大山時代」、その大山から名人を奪い、9期にわたり防衛し続けた中原誠が築いた「中原時代」のように、「谷川時代」…谷川ただ一人が「永く」トップであったと万人が認める時代は訪れなかったのです。

「谷川時代」が到来しなかった理由のひとつは、中原の逆襲です。

中原は谷川が名人に挑戦する1期前、加藤一二三に名人を奪われましたが、決して力の衰えが原因だったというわけではありませんでした。

谷川が1期防衛して迎えた1985年度第43期名人戦、挑戦権を獲得した中原は4-2で名人を奪取。中原が名人、谷川が挑戦者と立場を替えて行われた1988年度(昭和63)第46期名人戦では逆に谷川が4-2で奪い返すも、その2期後にまたまた中原に奪い返され…といった調子で、名人戦においてはここまで最高連続獲得が2期、通算4期にとどまります。

王将戦挑戦権獲得で羽生の七冠チャレンジが実現した。『週刊将棋』1995年1月11日号より

そして、もうひとつの大きな理由は、「羽生世代」の台頭です。

谷川が初の名人を獲得してからまもなく、俗に言う「55年組」、昭和55年にプロ入りした高橋道雄、南芳一、中村修、島朗、塚田泰明、屋敷伸之といった棋士たちがタイトル戦に顔を出し始め、谷川をはじめとした当時のトップ棋士と激しくぶつかりあいました。

それから5年ほどのち、さらに大きな波が訪れます。羽生善治をはじめ、佐藤康光、森内俊之、郷田真隆…谷川より7~8歳下の強豪「羽生世代」が集団で押し寄せ、トップ棋士、55年組をまとめて飲み込んでいったのです。

特に羽生の活躍は目覚ましく、1989年に初タイトル「竜王」を獲得すると徐々にタイトル数を増やしていきました。

1994年度に米長邦雄から名人を、同世代の佐藤(康)から竜王を奪って棋界にある7つのタイトルのうち6つを手にし、全冠制覇まであと1つと迫るのです。

残るタイトルは「王将」のみ。羽生はその王将戦でも挑戦権を獲得、ついに夢の七冠制覇が現実味を帯びることとなります。棋界はまさに「羽生時代」。そして、時の「王将」保持者は、他でもない谷川だったのです。

次回は『2つの逆境をはね返す』『羽生へのリベンジ そして伝説へ』をお送りします。