地元のスクールカーストから抜け出すための大学進学

大学に入るということは地元との決別だと思っていた。

僕が生まれ育ったのは埼玉県所沢市および隣接する東京都東村山市だ。どちらも西武線沿線の町であり、新宿や池袋までは急行電車で40分ほど。23区内に住むことはできなかった会社員たちが30年ローンで一軒家を建てるような典型的なベッドタウンだ。地元愛は希薄であり、祭りやイベントは盛り上がりに欠ける。親世代にも子ども世代にも「中の下」という表現が似合う中途半端さが漂う。

1976年生まれの僕が東村山の市立中学校に入ったのは80年代の終わり。数年前までは校内暴力が吹き荒れていた学校は、体育教師を中心とする徹底した管理教育で表面的な静けさを保っていた。

それでも肉体的な力がモノを言う世界観は変わらない。「スクールカースト」の上位を占めていたのは、軽妙かつ反知性的なトークと空気を読みながらつるむのが得意な不良および人気部活のスタメン。いわゆるヤンキーたちだ。「その他のモテない大勢」として強い劣等感を抱いていた僕は、勉強に励んで地元からの脱出を図った。

勉強の甲斐があり、僕は自転車で40分もかかる武蔵野市の都立進学校に入った。中学からの同級生は5人ほどで、ほぼ全員が学級委員などを経験していた。吉祥寺を擁する武蔵野市を中心とする「広い地元」の優等生ばかりを集めたような高校なのだ。東京全体から最優秀層の生徒が集う国立や私立の進学校とは違い、良くも悪くもまったりとした雰囲気だったと思う。

地元を愛した記憶はなく、"広い世界"を志向する日々

地元から完全に離れたのは、国立市にある国立大学に入ってからのことだ。僕は実家から電車通学ができたが、学生の半数は地方出身者であり、東村山の「元中」など1,000人近い同級生に一人もいなかった。社会科学系の学部しかない実学志向の大学だったため、一部の意識高い系の学生は「グローバルビジネスリーダー」を目指して勉強会やインターンシップを企画・実施していた。僕もその一人として、ひたすらに広い世界を志向していた。

屈辱と勉強の思い出しかない地元を愛した記憶は一度もない。年齢を重ねるとともに憎しみは薄れ、今ではたまに同級生と地元で飲むこともある。でも、所沢や東村山に住みたいとは思わない。すでに両親が両市から出ているという理由もあるが、僕にとって地元とは「イケてない自分」と同義だからだ。

大学を出て、会社を辞めてフリーライターになった直後は東村山にあった実家で過ごさせてもらったが、1年ほどでお金を貯めて杉並区西荻窪で一人暮らしを始めた。30代半ばを過ぎ、愛知県で仕事をしている妻と出会って結婚してからは、愛知県蒲郡市の自宅と江東区門前仲町の事務所を新幹線で毎週行き来する生活をしている。「地元」との距離はますます遠くなった。僕にとっては、その遠さこそが学歴と職歴を積んで経済力や人脈を身に付けた証である。地元から出られず、出ようともしないかつてのヤンキー層とようやく対等に話せる気がする。

飲み帰りの岡崎駅前にて。「親に電話して車で迎えに来てもらおうかな……」(藤田さん)

地元の大学院、地元の大企業、実家暮らし

一方で、大学を卒業したにも関わらず、幼少期を過ごした地元に住み続けている人たちが周囲にいる。お金がないから実家を出られないのではなく、立派に働いて稼ぎながらも慣れ親しんだ生活環境から離れがたいのだろう。地元に残ったり戻ったりすることは敗北でしかない僕にとっては衝撃的な生活観である。いったいどんな暮らしをして、何を喜びとしているのだろうか。なぜ地元の外に出ようとしないのか。直接聞いてみたい。

なお、ここでいう「地元」とは、県や市といった広い範囲ではなく、5キロ四方の小中学校の学区程度を指す(原田曜平『ヤンキー経済』幻冬舎より)。「元小、元中」の友だちおよびその家族がゴロゴロいる狭いエリアであり、匿名性のないムラ社会と言い換えることもできる。このような地元で愉快に暮らしている大卒者を「インテリヤンキー」と名づけ、彼らのキャリアと暮らしぶりをインタビューしていく。

第一回に登場してくれるのは、愛知県幸田町の実家に住む藤田一夫さん(仮名、31歳)。名古屋大学の大学院を出て、自動車関連の大企業にエンジニアとして勤務している。正真正銘のインテリヤンキーだ。

財政的に豊かな自治体で「地元」への愛情を語る

幸田町について簡単に説明しておくと、我が蒲郡市の西隣に位置し(そう言われてもわからないか)、西尾市と岡崎市に南北を挟まれている人口38,000人程度の町だ。低山に囲まれた環境ながらも大手メーカーの製造拠点がいくつもあり、財政的には非常に豊かな自治体として知られている。西三河地方の中核都市である岡崎市からの合併の誘いを頑なに拒んでいる、という噂もある。

「大自然のある幸田町がとにかく好きなんです。(喫茶店を経営している)うちの親はお客さんから自然薯をもらったりしています。物々交換が当たり前ですね。小学生は黄色いヘルメットをかぶって登下校をします。帰り道に近所のおばちゃんが『お腹すいた?』とイモを食べさせてくれたりするんです」

人懐こい笑顔が印象的な藤田さんは臆面もなく幸田町への愛情を語る。市ではなく町レベルの広さと人口であれば、自治体全体を「地元」と認識できるのかもしれない。

幸田町には高校が1つしかないため、藤田さんも中学校を卒業すると同時に地元を離れることになった。といっても、実家から自転車で通える範囲の岡崎市内の県立高校である。

「(全国有数の進学校である)岡崎高校は落ちてしまって、名前を書けば入れるような高校に入学しました。楽をしてクラスで一番になれて、先生とも仲良くなり、名古屋大の推薦をもらいました。(推薦)入試の際もひらめきがあって答案を書き、奇跡の合格を果たしたんです」

調子のいいお坊ちゃんのような発言が目立つ藤田さんだが、決して裕福とは言えない家庭に育った。自由人の父親は長男(藤田さん)が誕生した記念になぜか脱サラ。幸田町内の山間部に喫茶店を開業した。なお、父親自身の実家は岡崎市にあり、実家は弟たちに任せているという。藤田家は無責任な長男の系譜なのかもしれない。

「高校3年生のときに大学に行くつもりだと親に話したら、『お金がないので地元の国公立でないと通わせられない』ときっぱり言われました。ヤベー、と思って勉強を頑張りましたよ」

無事に名古屋大学に入り、大学院修士課程で就職活動をした藤田さん。会社選びにも彼の「保守性」が垣間見える。その話は次回に詳述する。

(次回は5月22日の掲載予定です)

<著者プロフィール>
大宮冬洋(おおみや・とうよう)
フリーライター。1976年埼玉県生まれ。一橋大学法学部卒業後、ファーストリテイリング(ユニクロ)に就職するがわずか1年で退職。編集プロダクションを経て、2002年よりフリー。愛知県在住。著書に『バブルの遺言』(廣済堂出版)、『私たち「ユニクロ154番店」で働いていました』(ぱる出版)など。食生活ブログをほぼ毎日更新中。毎月第3水曜日に読者交流イベント「スナック大宮」を東京・西荻窪で、第4日曜日には「昼のみスナック大宮」を愛知・蒲郡で開催。

イラスト: 森田トコリ