高度経済成長期、東京・大阪といった大都市部で労働力が不足し、地方から多くの労働者を受け入れた。そうした大都市での労働力不足を補ったのは、おもに農村部の中学校を卒業したばかりの男女だった。彼ら・彼女らは「金の卵」と呼ばれ、もてはやされたが、右も左もわからぬままに上京し、駅に到着するやいなや、職場となる商店や町工場へと連れて行かれた。
歳月とともに、「金の卵」も一人前になり、家庭を持つ。しかし、そのときには東京・大阪の土地価格は高騰。一般庶民が東京・大阪でマイホームを構えることは高嶺の花になっていた。
戦後、行政はマイホームを持つという夢を少しでも叶えるべく、東京・大阪といった大都市の郊外にニュータウンを計画。東京では多摩エリアに大規模ニュータウンの構想が固められた。多摩ニュータウンは当初、計画人口を15万人と想定していた。壮大なプロジェクトが多摩一帯で進められる。荒野とも農地とも、どちらとも言えないような風景の広がる土地が、みるみるうちに宅地造成される。
多摩ニュータウンで第1次入居が始まったのは1971(昭和46)年。住民たちは多くの希望を抱いて新天地へと足を踏み入れただろう。ところが、多摩ニュータウン住民の通勤の足は未整備のままだった。約3年もの間、住民は交通面で不便を強いられる。
その後、京王相模原線の京王多摩センター駅が1974年、小田急多摩線の小田急多摩センター駅が1975年に開業。多摩ニュータウンの中心ともいえる造成地に設置され、京王電鉄・小田急電鉄の駅がそろったことで、ようやくベッドタウンとして体裁が整い始めた。
京王多摩センター駅は北側、小田急多摩センター駅は南側にホームや改札口など設け、両駅はほぼ一体化している。南側の出入口からはペデストリアンデッキが延び、まるでペデストリアンデッキに街が築かれているような錯覚を覚える。一方、北側は駅前にいくつかの飲食店やコンビニが並び、駅を離れると次第に緑が増えていく。閑静な住宅街ではないが、静かな生活空間が広がる。
駅周辺は新たに開かれた街だったこともあり、両駅とも地元住民以外の乗降が少なかったという。現在も地元住民の利用が目立つが、来街者も見られるようになった。
南側の出入口から続くペデストリアンデッキからまっすぐ延びるパルテノン大通りを歩いていくと、正面に巨大な建物が現れる。この建物は多摩センター地区のシンボルともいえるパルテノン多摩で、博物館やホールといった機能をあわせ持つ複合文化施設。さまざまなイベントも催されるが、2018年から大規模改修が始まり、現在は休館している。
メインストリートともいえるパルテノン大通りの両脇には、京王プラザホテル多摩をはじめ、ココリア多摩センター、丘の上のプラザ、イオンシネマといった商業施設が並ぶ。これらの商業施設は多摩センター地区の大事な生活拠点。平日でも人出は絶えない。
パルテノン大通りの途中で、ハローキティストリートが分かれていく。ハローキティストリートを東へ進むと、サンリオピューロランドが見えてくる。屋内型のテーマパークであるサンリオピューロランドが1990(平成2)年に開業したことにより、京王多摩センター駅・小田急多摩センター駅周辺は休日を中心に多くの来街者を集め、にぎわいを見せるようになった。
パルテノン大通りからサンリオピューロランドまでは短い道のりだが、その途中にベネッセの東京本部も立地している。ベネッセビル東側の広場は「しまじろう広場」と命名され、ハローキティとしまじろうが並び、一緒に撮影できるモニュメントも設置された。
パルテノン多摩の裏手には、広々とした多摩中央公園があり、地元住民の憩いの場になっている。大きな池を囲むように芝生広場があり、レジャーシートを広げた家族やカップルなどでにぎわう。所々でボール遊びに興じる親子の姿や、家族で弁当などを楽しむ姿も目にできる。
多摩中央公園の一画には、温室を備えたグリーンライブセンターがあり、ガーデニング愛好者が集まる。園芸にそこまで強い関心がなくても、緑や季節の花を愛でるなど、多摩の自然を感じるために寄るのも悪くないだろう。
多摩センター地区では2000(平成12)年、新たに多摩都市モノレールの多摩センター駅が開業。これにより、多摩センター駅から多摩動物公園・立川方面といった南北の移動が便利になった。
昨今、新型コロナウイルス感染症の影響で、リモートワークの普及拡大が奨励されている。毎日のように出社する必要がないことから、郊外へ移住を検討する世帯も増えているという。鉄道網が充実した京王多摩センター駅・小田急多摩センター駅・多摩センター駅周辺は、そうした時代に打ってつけといえるかもしれない。
一時期、多摩ニュータウンは高齢化が著しいことから、オールドタウンなどとも揶揄(やゆ)された。社会環境が変わったことにより、再び熱い視線が注がれつつある。