為朝、宇喜多秀家……島流しと伝説の島

伊豆諸島の中でポピュラー度が高い島と言えば、伊豆大島、新島、三宅島、そして八丈島といったところだろう。なかでも八丈島は、東京からおよそ300kmの南、黒潮の只中に浮かぶ風光明媚な島。年平均気温は18度。かつてはその温暖な気候から常夏の島ともてはやされ、多くの新婚旅行客を呼んだ。さらに古くは、島流しの島としても名を馳せた。

伊豆諸島の外から八丈島へのアクセスは、東京から飛行機・船の2ルートのみ。飛行機はANAグループのエアーニッポンが羽田から50分、船は東海汽船が竹芝桟橋から10時間半~11時間ほどで、それぞれ八丈島と本土を結ぶ。そのほかエアーニッポンが伊豆大島との間を、また青ヶ島の回で登場した東邦航空のヘリコプター・愛らんどシャトルが北の御蔵島、南の青ヶ島との間で運航している。

大坂トンネル付近から望む、八丈島西海岸のすばらしい眺め。奥に見えるきれいな形の山が島最高峰の八丈富士(854m)である。左の海には八丈小島が浮かんでいる。あの小島の周囲は釣りやダイビングが最高らしいが、黒潮をもろに受けるので流れは相当速い

東海岸の底土港。東京からの船はこの港に着く。反対の西海岸には底土港が使えない場合に利用する八重根港があるが、黒潮に直面する西海岸は概して波が荒く、風も強いため安定利用は難しい

飛行機なら東京からそう時間はかからないし、そもそもこの島は東京都でもあるし、八丈島に端っこのイメージを抱く人などいないにちがいない。たしかに現代の地理的には、日本の端とは言い難い。しかし歴史をひもとけば、あながちそうともいえないことに気づく。

八丈島といえば、思い浮かぶのはやはり"流人の島"のイメージ。関ヶ原の戦いで西軍方につき敗れた備前岡山の宇喜多秀家が、八丈島へ流された流人の第1号となっている。江戸時代の初めのことだ。秀家は一生を八丈島で送った。ゆえに彼の墓は、いまも八丈島に残っている。以後、八丈島は明治を迎えるまで、260年以上にわたり流刑の島とされてきた。その間、流された人の数は1,900人に及ぶといわれる。

"豊臣の五大老"の一人といわれた宇喜多秀家。大賀郷の集落に彼の墓が残っている。彼が流されたのは慶長11(1606)年のこと。墓のそばには岡山城から運ばれた天守閣の礎石が置かれている

西海岸・南原千畳敷の近くに作られた宇喜多秀家とその妻・豪姫の像。背後には八丈富士の美しい姿が控えている。なお、豪姫は八丈島には流されていない

南原千畳敷越しに八丈小島を望む。南原千畳敷は、八丈富士が噴火して流れ出た溶岩流によりつくられた真っ黒な溶岩台地。八丈小島は中心に616.6m(616.8mとも)の太平山がそびえ、海の要塞のような趣を見せる

それよりはるか昔、保元の乱で敗れた源為朝が来島したという伝説もある。弓の名人で天下の暴れん坊・鎮西八郎為朝が流されたのは伊豆大島だが、八丈島でも活躍したというストーリーは曲亭馬琴(滝沢馬琴)の『椿説弓張月』にも描かれており、八丈島と為朝がスッと結びつく人も多いことと思う。

為朝に関しては、西海岸にニュッと突き出た八丈小島で自害したとか、女だけが住んでいたため「女護ヶ島」と呼ばれた八丈島を離れて男のみが住む「男ヶ島」(青ヶ島)に渡ったとか、さまざまな伝説が残っている。『椿説弓張月』に描かれるように、その後、琉球へ渡ったかどうかはともかく、このように数々の伝説で親しまれている為朝も、やはり日本史を代表するヒーローの一人といえるだろう。八丈島には彼をまつる為朝神社がいくつもある。

軍記物「保元物語」で活躍する鎮西八郎・源為朝。2mを超える大男で、弓の名手だったが、弓を引けないよう腕の筋を切られて伊豆大島に流された悲劇の英雄である。八丈島には彼の伝説が数多く残る。写真は大里地区の為朝神社

島の暮らしや流人関連はもちろんのこと、為朝伝説についての資料も展示されている八丈島歴史民俗資料館。建物はかつての八丈支庁舎で、国の有形文化財に登録されている

太平洋戦争の不気味な爪跡

八丈島は青ヶ島に渡る唯一のアクセス基地であるから、今回は当然、青ヶ島をヘリで発ってふたたび八丈島へ戻ってきた。八丈島空港は標高854mの八丈富士(西山)、701mの三原山(東山)という二つの山に挟まれた、狭い平地に造られている。山と山の間でちょうど風の通り道にもなっているから、風はけっこう強い。今回も着陸直前、三原山の山裾でヘリがドンと揺れ、大地がグッと近づいてきた。

青ヶ島からのヘリは、住宅や畑の上空すれすれを飛び抜けて、八丈島空港に近づいていく。右の写真は滑走路から見た八丈島空港のターミナル。背後の緑は八丈富士だ

こちらは島を形づくるもう一方の峰、三原山。伊豆大島にも有名な火山の三原山があるが、もちろんあれとは別の山である。山頂の三角点の正確な標高は700.9m

空港でレンタカーを借りて、走り出す。八丈島の面積は伊豆諸島で2番目の62平方km強。海岸線の長さは60km弱。それほど大きな島というわけではないが、空港や役場のある島中央部の集落を除けば山がちで、道路も二つの山を巡る形で海岸線沿いに設けられている。そのため、一周するとそれなりに時間はかかるのだ。

八丈島訪問は2005年3月以来のこと。このわずか数年でも、道がきれいになったところあり、それなりに変わった気はするが……いやそれにしても根本的にはほとんど変わっていない印象である。のんびり感が島全体に漂っているのは、やっぱり島だなぁとほっとする。 しかしながら……ほっとするなどと言っていられない時代が、かつてこの島にもあった。それも罪人が流されてきた明治以前の昔の話ではなくて、たかだか60年ちょっと前のことだという。今回宿泊した民宿「あしたば荘」のご主人から、そんな話を聞いた。

今回お世話になった、南部・中之郷地区の民宿「あしたば荘」の入り口。玉石垣が情緒を誘う。"あしたば"とは明日葉、そう八丈島名産の植物だ

実はこの島、太平洋戦争末期に多数の防空壕が掘られた。とくに島の南部、三原山の山中には、陸軍が「最終司令部」なるものを築こうとした跡がいまでも残っているという。地図を見ると、たしかにその一帯には「防衛道路」や「鉄壁山」といった地名を見ることができた。

八丈島は、南方の太平洋から日本本土へ向かう途上にある。昭和20(1945)年3月、この島から1,000kmほど南に浮かぶ日本軍の重要拠点・硫黄島が陥落した。アメリカ軍がそのまま北上すれば、小笠原の父島や母島を抜け、さらにその先にあるのが八丈島。八丈島が破られれば、あとはもう本土決戦しかない。つまり八丈島は、迫りくる本土決戦に備え、米軍進攻ルートに対して最前線、すなわち"日本の端"となりうる位置にあったわけだ。

そこで日本軍は、八丈島の要塞化に着手した。島の各所に壕を掘り、三原山山中に司令部を置くための建物も築いた。あの人間魚雷「回天」の基地まで造られている。しかし戦線は小笠原北上ルートをたどらず、沖縄へ。八丈島は幸いにも戦場とならずに、終戦を迎えた。

島中で防空壕が掘られた。また自然の洞窟も数多く存在し、日本軍が潜伏して陣を構えるにはうってつけだったかもしれない。それだけになお、実際の戦場とならずに済んでよかったと心から思う

三原山周辺の林道を入ると、このような案内の岩が置かれていた。「防衛道路」「鉄壁山」と記されている。この先に、陸軍最終司令部陣地予定地の跡が残っている

林道を歩くと突然姿を現す、陸軍最終司令部陣地予定地跡。敗戦を迎え、実際にここが司令部として機能することはなかった。おかげで八丈島も日本の最前線とならずに済んだというわけだ

司令部予定地跡の入り口。かつては中に入ることもできたようだが、崩落の恐れがあるため、現在では立ち入り禁止になっているようだ。司令部が置かれる予定だっただけに、内部はかなり広く長く続いているのだろう

次回は八丈島後編、東京都亜熱帯区の風物と名物を巡る、をお送りします。