今回のテーマは「神輿」である。「三社祭りの季節だから」だそうだ。それを聞いた私は「あーそーゆーことね 完全に理解した」と言いながらまず「三社祭り」とググッた。

まず、三社祭りとは、三つの祭りと見せかけて実はひとつである。東京、浅草の浅草神社で行われる祭りで、延べ来場者数は200万人ぐらいだという。

わけがわからない、日本人口の1%以上来てしまっているではないか、本当にそれが浅草に収まりきっているのか。

次に「三社祭り」で画像検索してみると、体に消えないタイプのボディペインティングをされている方がたくさん出てきた。だが、それより遙かに恐ろしいのは、やはり200万人級の人である。

人ごみが得意という人間はいないだろが、田舎に住む人間は好き嫌い以前に「人ごみ耐性」がない。

田舎の人間と言ったら、畑の大根を生で食いながらムカデを素手で握りつぶす、屈強なイメージがあるかもしれないが、現実はツツジの蜜を吸っている程度だし、肉体的にも都会の人間よりよほど虚弱体質である。 車社会で歩かないのはもちろん、人口が少ないから人一人に与えられているスペースがでかく、どこもそこまで混まない。田舎の「混んでいる」が都心の平常運転なのだ。

先日、朝6時の渋谷駅前を歩いたが、あきらかにおらが村の祭より人がいた。

「こんな時間から祭か? 」と思ったが、どうやらそれが渋谷の普通の午前6時の人口だったようだ。

つまり都会では、ぼんやり歩いていると人とぶつかって傷害事件に発展してしてしまうため、注意深く歩くか、ケンカになっても勝てる腕力か、ぶつかった時点で相手が5メートルぶっ飛ばされる筋肉が求められるのだ。

対して田舎はボンヤリ歩いているもやしっ子ばかりである。それと、この前はじめて東京で満員電車に乗ったのだが、あれは人間一人あたりに与えられているスペースが「0.7人分」くらいしかない。よって体が自動的に70%に圧縮される。

私は0.7カレー沢になりながら「これは事件では? 」と思ったが、周りは一切動じる様子がない、「慣れている」のだ。

都会の人間は鍛えられている、と心底思った。今の田舎の人間が慣れていることなんて、店が早く閉まることぐらいである。

そんな虚弱体質がいきなり200万人の三社祭に行って、生きて帰れるとは到底思えない、おそらく「なす術がない」と思う。

私に「有名なアレに行ってみたい」という気持ちがないのは、有名なところ人気があるところには人がたくさんいるからだと思う。

人がたくさんいても行く、何時間でも並ぶ、という強い意志が持てるのはDB(ドスケベブック)を買いに行くときだけだ。

しかし、200万人も来るのだから、祭自体は楽しいものだろうし、神輿も一見の価値があるのだろう。見てみたい気はするのだが、今の私だと、ネロがルーベンスの絵を見るぐらいの覚悟がいる。

それと「神輿(正確には山車かもしれない)の上に乗る」という行為にはあこがれがある。今まで神輿を担いだこともなければ、まして上に乗ったこともない。

一度でいいから、神輿に乗って、大漁旗を振り回しながら登場してみたいものである。しかし、私にはもう、主役になれる場が葬式ぐらいしか残されていないのだ。

よって、私の葬式の際は、棺おけをワッショイワッショイいいながら運んでもらうか、さらにその上に誰か乗って、大漁旗を振り回してほしい。

もうひとつ、祭で乗ってみたいもの代表と言ったら、巨大な男根だろう。

日本には有名な「かなまら祭」をはじめとして、女性が跨った巨大な男根像を神輿の如く担いで町を練り歩く祭が存在する。

セクハラとかジェンダー問題とか、我々が考えなければいけない問題は多々あるが、巨大男根に跨って町を練り歩いている時だけは、全てを忘れられそうではないか。人間たまには頭からっぽにすることも必要である。

そう言った男根祭の中には地元の人間でなくても、観光客が飛び入りで跨れるものもあるというので死ぬまでに一度は行ってみたいものだ。

私にとってのルーベンスは男根なのかもしれない。

筆者プロフィール: カレー沢薫

漫画家・コラムニスト。1982年生まれ。会社員として働きながら二足のわらじで執筆活動を行う。デビュー作「クレムリン」(2009年)以降、「国家の猫ムラヤマ」、「バイトのコーメイくん」、「アンモラル・カスタマイズZ」(いずれも2012年)、「ニコニコはんしょくアクマ」(2013年)、「負ける技術」(2014年、文庫版2015年)、Web連載漫画「ヤリへん」(2015年)など切れ味鋭い作品を次々と生み出す。「やわらかい。課長起田総司」単行本は全3巻発売中。