今日は三月一日だ。今日が卒業式、というところも多いかもしれない。私も一応、小中高、専門学校を卒業しているのだが、行動があきらかに「最終学歴幼卒」である。

そんな自分を見るにつけ、某曲の「卒業式とは言うが何を卒業するのか」という歌詞は秀逸だと思う。私が何故上記の学校を卒業できたかというとまず「親が学費を出してくれた」から、そして「出席日数が足りていた」からだ。

テストの点とかも多少あるかもしれないが、この2つに比べれば些末なことである。よって、私自身は何を学んだでも成し遂げたでもなく「ただそこに存在した」という理由で卒業証書を手にしたのである。

もちろん、学んだり、成し遂げたりして卒業していく者も多いと思うが、中には私のような「存在一点突破卒業」の物もいるのである。

それにも関わらず、卒業式では全員まとめて「卒業おめでとう」なのである。そう言われると本人も何かやりとげたかのような錯覚を覚えてしまうし、親もつられて「育てきった感」を感じてしまうのだ。

しかし実際は、新卒で入った会社を8ヶ月で辞め、メンのヘルを煩い、1年以上無職をやるという、親にとっては「俺たちの子どもの面倒はまだ始まったばかりだった」という展開に突入していったのだった。つまり卒業というのは区切りでしかなく、それをしたからと言って成長するわけではない、場合によってはむしろ「所属先を失っただけ」という場合もある。

世の中、学校でも会社でも家庭でも何かに所属しているのが当たり前とされており、どれにも当てはまらないと「貴様何奴!?」となるし最悪「曲者め!」となってしまう、そして決まって「なんで?」と聞かれる。

確かに、五体満足の若者が学校にもいかず働いてもないと聞けば「Why?」以外の感情は起こらないと思うが、人には色々事情があるし、まず本人が何故そうなったのかわかっていない場合が多い。ともかく、何かに所属していないのが悪いわけではないが「面倒」なのは確かである。

学校を出終わると、そんな卒業の機会すらなくなるような気がするが、大人になってからも卒業はある。

「退職」「離婚」「死亡」などだ。

どれもあまり「卒業おめでとう」な雰囲気がしないが、卒業というのは「解放」という意味もある、嫌いな会社や、クソのような配偶者からの卒業なら「おめでとう」と言えるだろうし、死ぬのだって本人はめでたくなくても、周囲の人間がエヴァの最終回級に「おめでとう」な場合もある。

そして、当コラムでも「卒業」がある。残念ながら今回で最終回、というわけではない。担当が異動により私の担当から「卒業」である。

このコラムの担当が変わるのは二回目なのだが、この担当とは結局一度も会う事がなかった。しかし、いつも私の原稿に感想、それに関した自分の体験談などをメールに書いてくれていた。

私はそれを全部無視した。この担当が嫌いだからではない、私は担当という生き物の世間話は全部無視する主義だからだ。よって常に「原稿送ります」「イラスト送ります」というコピペメールを送り続けた。

しかしこの担当はどれだけ私のレスポンスがなかろうが最後の最後まで、感想と自らの近況を私に送り続てきたため、最終的に私の方が戦慄を覚えた。

だがこれはこの担当に限ったことではない、担当と言う生き物は、こちらがどれだけノーリアクションだろうが「彼氏と別れた」「整形した」という話を私にしてくるのだ。

編集者という生き物は、私と対極をなす「コミュ力モンスター」が多いのだが、この常人なら「二、三度世間話をして、話題が広がらなかったら、こちらも業務連絡だけにする」ところを、ネバーギブアップ精神で永遠に話しかけ続ける所が、モンスターのモンスターたる所以なのかもしれない。

もしくは「お前が聞いていようが、いまいが関係ない、俺のは俺の話をする」という精神なのだろう、どちらにしてもモンスターだ。

筆者プロフィール: カレー沢薫

漫画家・コラムニスト。1982年生まれ。会社員として働きながら二足のわらじで執筆活動を行う。デビュー作「クレムリン」(2009年)以降、「国家の猫ムラヤマ」、「バイトのコーメイくん」、「アンモラル・カスタマイズZ」(いずれも2012年)、「ニコニコはんしょくアクマ」(2013年)、「負ける技術」(2014年、文庫版2015年)、Web連載漫画「ヤリへん」(2015年)など切れ味鋭い作品を次々と生み出す。「やわらかい。課長起田総司」単行本は全3巻発売中。