漫画家・コラムニストとして活躍するカレー沢薫氏が、家庭生活をはじめとする身のまわりのさまざまなテーマについて語ります。

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今回のテーマは「モチベーション」である。

しゃらくさい言い方をしているがモチベーションとは「やる気」のことである。

基本的に私はやる気がない人間であり、世界はそういうやる気がない奴が開けた穴をやる気がある人間が埋めることで成り立っている。

ならば、やる気がない奴を抹殺し、やる気がある人間だけにすれば、今頃世の中はもっと進化し、車が空を飛び、青狸が往来を闊歩する世界観になっていただろう、と思うかもしれないが、それは違う。

やる気がある人間の提案に対し「それでいいっす」と、何も考えずに頷くやる気のない奴がいたから、世界はここまで進歩したのだ。

全員がやる気があったら全員己の意見を曲げず、今頃世界は青狸どころか、謎の焼けこげたネジが転がるマッドマックスになっていたはずである。

やる気がないということは「戦う気もない」ということであり、ただ面倒ごとから逃げたいだけだが結果的に「平和主義者」として、世界から諍いをなくす一助にはなっていたりする。

またやる気がある奴のすることが常に正しいわけではなく、むしろダイナミックな損害を出す事件は、やる気がある奴が起こしている場合が多い。

やる気がないということは「いらんことをする気力もない」ため、田舎の中小企業から給料泥棒などの小さな損害は出すが、大損害を出す力はないのだ。

また大事を成し遂げるやる気がある人間とて、それを一人で成し遂げるのは無理であり、必ず同志や部下が必要になってくる。

同志や部下もやる気がある人間で構成した方がいいと思うかもしれないが、やる気があるということは自我も強く、内乱を起こすのは常にやる気がある奴なのだ。

よって大義を成し遂げるためには「とりあえずこいつについていって、言われたことだけやっとくか」という、やる気のない思考停止勢も必要だったりする。

「言われたことだけやる」というのはビジネスシーンで悪いことのように言われるが、やる気のない奴の中には「言われたこともやらない」上位種もいるし、さらに厄介な「やる気はあるのに能力的に言われたことができない」という、指示した方も何と申し上げて良いかわからないタイプもいるのだ。

それに比べたら、言われたことしかやらないやる気のない奴など可愛いものである。

このように、やる気がない奴というのは世界にとって必要悪ではあるのだが「急にバンジーの紐をつける気がなくなった」など、やる気のなさが招く大事故も少なくはないので、突然体当たりされる地球にとっては「人間はやる気があってもなくても有害」であることには違いない。

またやる気がない、というのは周囲にとっても有害だが、本人にとっても有害な場合が多い。

なぜなら、同じ行動でもやる気があるかないかで苦痛度が変わってくるからだ。

つまり全てにおいてやる気がない人間は「息をするのも苦痛」であり、メンをヘリやすいのである。

逆にやる気がある人間は息をしているだけでも楽しいので、その差は大きい。

だが、やる気というのは「やるぞやるぞやるぞー」と、オフィスに神棚があるタイプの会社で行われる朝礼みたいなことをすれば出てくるというわけではない。

やる気というのは「興味」から起こるものである。

部屋の掃除ができる人間というのは「掃除してキレイになった部屋」に興味があるのだ。 逆に片付けない人間というのは、キレイな部屋に興味がない、つまり汚い環境でも平気だから掃除しないのだ。

つまり、掃除をしても自分にメリットがないと思っているのでやる気が出ないのである。

「タダで働け」と言われてやる気が出る人間がいないように、自分にメリットが感じられないことに対してやる気を出すのは難しいのである。

よってやる気がない人間というのは、もともと無気力というより「あらゆることに興味がない」場合も多い。

そして「興味の幅が著しく狭い人間」が、古き悪きオタクのテンプレ像となる。

他の人間が成長過程でそれなりに興味を持つ、ファッションや恋愛などに興味を持たないため、己の見た目や他人の関心を得ることに全くやる気を見せず、それらの話題には乗らないばかりか、聞く姿勢すら見せない。

一方で、自分の興味がある分野の話になると、相手が聞いていようがいまいが一方的にしゃべり続けたりする。

空気を読めと思うかもしれないが、何せ他人の気持ちに興味がないのだから読めるわけがない。

好奇心はおキャット様を殺す、と言うが、好奇心が偏りすぎている人間というのは己を社会的に殺すことになる。

しかし、おキャット様を殺すぐらいなら、自分が死んだ方が良いと思うので、これからも悪いオタクたちはおキャット様ではなく、自分を殺し続けてほしいとも思う。