漫画家・コラムニストとして活躍するカレー沢薫氏が、家庭生活をはじめとする身のまわりのさまざまなテーマについて語ります。

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今回のテーマは「町内行事」である。

地域の繋がりが薄くなったとは言え、世の中には未だに様々な「行事」というものが存在する。

だが「無職中年」のために用意されている行事というのはほぼ存在していないのだ。

「無職」というのは、仕事に就いていないという意味ではない。肩書きや属性がないという意味だ。

ジジイやババア、ガキ、というのは実はそれだけで称号であり、何かの優遇を受けられたり、子ども会や老人会などのコミュニティ参加が許されたりする。もうこの時点で私より上の存在なのだ。

よって地域で行われる行事というのも、運動会など、子どもや老人、もしくはそれをちょっといい席で見物する老人のために存在することが多い。

しかし、いくら身分の低い中年とはいえ、それらの行事に一切参加が許されないなどということはなく「労働力」としてその場にいて良い、という慈悲が与えられている。

つまり、地域の行事というのは、子どもや老人中心で、それをセッティングするのは中年という構図であり、主に「○○ちゃんママもしくはパパ」という称号を与えられた子どもの保護者が駆り出される。

昔であれば女というだけで「婦人会」というアマゾネス集団を結成させられ、あんまり関係がない行事にまで無料労働力として派遣されていたのだが、幸い我が団地にそのようなものは存在しない。

私は、子どもでも老でもなく、子どももおらず、ついでに職もないという、正真正銘の無職中年なため、良くも悪くもそういった行事にあまり関わることはなかった。

面倒がなくて良いと言えば良いのだが、こういう行事や会に参加することがなければ、ご近所の関係というのはほぼ築けないのだ。

田舎において地域のコミュニティに属せない、というのは死に直結、もしくは八つ墓村ワンチャンで、周囲が死ぬことになる。

どちらにしても死人を出さずにいられない事態になりかねないのだ。

しかし、行事や会に参加すれば、地域住民と親交が深められると、考えるのもスイートだ。

そんなことが出来るなら、学校に通うだけで友達100人出来たはずである。

コミュニティに参加したことにより「コミュニティの中で孤立」してしまい「何かあの人悪い意味で変わっている」という印象を持たれてしまい、まだ「誰が住んでいるかわからない家」のままでいた方がマシな事態になる可能性が高い。

ともかく、無職中年が主役になれる行事と言ったら、子どもも老も関係ない、何一つカタルシスのないイベントだけである。

それが「町内清掃」だ。

この時ばかりは、子どもや老はほとんど家にすっこんでおり、町内にはほぼ中年しか存在しなくなる。

そして今年、我が家は不慮の事故で生活環境役員になってしまったため、この町内清掃を取り仕切らないといけないのである。

近所にほぼ知り合いがいないのに、いきなり住民を率いろというのは無理ゲーである。まだジョーカーのコスプレで暴れる方が、単独行動という点で難易度が低い。

よって、話し合いや調整については夫に「俺にはムリだあんたに任す」と加藤清澄の顔で伝えた。カトゥはそんなこと言っていないのだが、とにかく村八分や31人殺しを起こして都会者に「やはり田舎は陰惨だ」という真実を伝えたくなければ、お前がやってくれと真顔で頼んだ。

夫も事件の横溝正史の香りを感じ取ったのか「はい」「いいえ」以上のコミュニケーションが必要とされる仕事は引き受けてくれ、私は夫が作った清掃の案内を住民に会わずにポスティングしていくという、スネークムーブを担当した。

おかげで、特にネタになるようなご近所ぶっちぎりバトルが起こったり、私がアマゾンで、懐中電灯と日本刀を各2本ずつポチることもなく終わった。

もし私1人で対処していたら、今頃団地は「焼却」という形で浄化されていただろう。

やはり、人間というのは助け合いであり、お互いの足りぬ部分を補っていくのが家族、そして結婚であると思った次第である。

しかし、今のところ、夫に出来なくて、私に出来ること、というのが見つからぬのである。

「人」という字は支え合っているというが、良く見たらどう見ても、短い方に負担がかかっているではないか。

そういう意味で我々はこれ以上なく「人」の在り方を示していると言える。