
ヘアカット100として、まさかの新作『Boxing The Compass』を発表したばかりのニック・ヘイワードが、久々にソロで来日。10月12日(月・祝)に大阪、14日(水)・15日(木)に東京のビルボードライブでワンマン公演を行なう。ファンク、ラテンなどの影響を取り入れたヘアカット100はデビュー作『Pelican West』(1982年)が英米でヒットしたが、ニックは早々と脱退。ソロ歌手として地道に良作を生み続けている。今年で65歳になったニックに、紆余曲折の歴史を振り返ってもらった。
『Get Back』が導いた再始動、ポップの原体験
─ヘアカット100が最初に再結成したのはVH1の企画で、2004年でした。いったいどうやって他のメンバーたちと打ち解けられたのですか?
ニック:テレビ番組のための企画かな? よく覚えていないけど、いずれにせよ僕らの場合、打ち解けるのは簡単なんだ。友達だからね。レス(・ネムス、ベース)、グレアム(・ジョーンズ、ギター)と僕は10代の頃からの付き合いだ。でも、問題はそれを長く続けられるかどうか。1982年以降、何度再結成しようとしたことか……でも一緒にいられなかった。今回初めて、本当の意味でバンドが続いているよ。そしてそれが可能なのは、チームの中で重要なポジションを担う存在がいるから。それがマネージメントなんだ。
─そして完成したヘアカット100のニュー・アルバムは、いかにもこのバンドらしいファンクばかりでなく、あなたのソロ作に入っていてもおかしくなさそうな「Come Back To Me」や「Raincloud」といったロックチューンも入ってますね。新作はどんな風にして作っていったの?
ニック:コロナ禍、ミュージシャンが皆、無職状態だった時、『ザ・ビートルズ: Get Back』を観た。そして、彼らが毎日スタジオにやってくる姿が魔法のように感じられた。どのバンドもあれを観ながら、「ああ、僕らもああなりたい」と思ったに違いない。要するに「皆がスタジオに集まり、作業を続ける、それが全てだ」ってね。でもそれが一番難しいことだったりする。僕らにしても、スタジオを押さえるにはお金が必要で、マネージャーが必要で、組織をまとめる能力も必要で。僕らはそういうのが得意じゃなかった。いざ集まっても、なかなか続かない。だから『Get Back』を観て、物凄く刺激を受けたんだよ。
楽曲が生まれた背景はそれぞれさ。たとえば「Vanishing Point」と「Soulbird」はコロナ禍、PCの前に座り、16小節のループに合わせてギターを弾いて作った。PCに入ってるドラムくらいしか一緒に演奏できる相手がいなかったけど、僕は楽しくて続けていた。その後、ギグをやる話が持ち上がったので、皆とミーティングをした時に「Soulbird」をかけたんだ。ジョーンジー(グレアム・ジョーンズ)が「Solid Gold!」とか「Goldmine!」(どちらも最上級の褒め言葉)と言ってくれたのを覚えてるよ。
─今ビートルズの話が出ましたが、子供の頃はクイーンの「Seven Seas Of Rhye」がお気に入りだったとか。T.レックスの「Hot Love」をカバーしたりもしていますが、結構ロック少年だったんですね。
ニック:ああ、それがその頃周りにある音楽だったから。10歳の自分にとってそれは父親がかけるカウント・ベイシーと母親が聴いていたカーペンターズだったけど、1974年になるとクイーン、マーク・ボラン、デヴィッド・ボウイに代わった。テレビからの影響も大きかったよ。コカコーラのCMソングとかね。そこらじゅうにあったんだよ、影響を受けるものが。
クイーンの「Seven Seas Of Rhye」は、なんと言ってもあのイントロだね。曲のイントロからは影響を受けてきたし、とても重要だ。人は初対面の相手を見るのに、靴とか髪とか、目につくところをまず見るよね。それと同じさ。その曲との最初の出会いって大事なんだよ。クイーンを初めて知ったのは、「Seven Seas Of Rhye」のあのイントロを通してだった。あれはまるで長いイントロがそのまま曲になってるみたいな構成だった。あれを聴くと、厚底のプラットフォーム・ブーツを履きたくなるんだ(笑)。実際の身長より、もっと背が高くなりたい!という気持ちになる。
振り返ってみると、人生のいろんな局面でクイーンとのつながりがあった。たとえばヘアカットの『Pelican West』をレコーディングしたスタジオでは、クイーンも、ユーライア・ヒープも録音していた。「Love Plus One」を手がけたのは、クイーンの『A Night At The Opera』やユーライア・ヒープのアルバムのエンジニアだったジョン・ギャレンだ。そんなふうに僕の人生には、ずっとクイーンとのつながりがあったんだよ。
一度なんて、ライブのリハ中にスタジオのドアが開き、ブライアン・メイの顔がひょこっと覗いたことがある。どうやら彼はスタジオを間違えたんだ。僕にとっては”最高の間違い”で、そのままギターを弾き始めてくれてもよかった。「あ、ごめんごめん」と謝るブライアンに、僕は「どうぞ入って」と言ったけど、彼は「いや、失礼するよ」と行ってしまった。あのパーマの髪といい、姿といい、そのまんまさ。「どうしよう、スタジオにブライアン・メイが顔を出した!」って思ったよ(笑)。素敵な話だろ。
─貴重なエピソードをありがとうございます(笑)。あなたより先にバンドを組んで活動を始めた兄のピートさんからは、どんな影響を受けましたか?
ニック:兄はパンクの前からバンドをやっていたし、僕の家じゃ、とにかく音楽がすべてだった。ピートの部屋にはWEM Copicat(エコーマシン)やストラトキャスターがあって、朝から晩までピンク・フロイドが流れていた。新聞配達のバイトでもしてたのかわからないけど、どこかで稼いだ小遣いの全てをレコードを買う金に充ててたんだよ。そんな兄だったから、僕はすごく影響を受けたよ。
僕が初めておぼえたギターコードは、ピートから教わったDのコードだった。兄から弟への贈り物だね。D、次はCへ……そうやって曲を作っていった。兄は部屋でレコードに合わせてギターソロを弾いていたけど、僕はなぜかそうしなかった。最初に楽器を手にした時から、思いつくままに曲を作っていたんだ。もしかすると、レコードでどう弾いているのか聴き取れなかったから、そうしたのかもしれない。スケッチしたり、絵の具で絵を描いたりするのが好きな子供だったから、楽器でも同じことをしていたのかも。何かをコピーするのではなく、思いつくまま落書きするみたいにね。
影響を受けやすい子供は、マグリットの絵を見たら「あれはどうなってるの? なんで目がリンゴなの? なんで山高帽なの? あのパイプは何? なんでパイプの絵なの?」なんて思うんだ。音楽でも同じだったと思う。「なぜ「Seven Seas Of Rhye」はあんななんだろう? どうやったらああなるんだろう?」。どのコードを使っているのか突き止めることよりも、音楽を聴いて感じたことを絵に描くみたいに、形にしようとしてたのかもしれない。「なんでこの曲を聴くだけで、こんなにワクワクさせられ、生きる喜びを感じるんだろう? 僕もそう感じる音楽を作りたい」ってね。だからキーボードでもギターでも、手にした楽器でその感覚を生み出そうとしていた。
ステイタス・クォーの「Down Down」のイントロは、歴代のポップソングの中でも間違いなく最高のイントロの一つだと思う。フィーリングもサウンドも、とにかくシンプルでベーシックなロック。聴くとデニムの匂いが空気中に漂って、デニムの青色の世界なんだ。思わず拳をあげたくなるよ。「僕は生きてる!」っていう気分にさせられる。だからといって、そのコードを分析しようとは思わなかった。ちゃんと知ったのは、わずか3年前さ(笑)。インターネットのおかげで、あの曲がオープンGチューニングで、2フレットにカポをつけて弾いてるんだと初めて知り、「そうだったのか!」と思ったよ。
─ヘアカット結成前のあなたはXTCやトーキング・ヘッズ、スクイーズやザ・ジャムに影響されたとか。つまり、一貫してポップでメロディ・オリエンテッドなバンドに惹かれていたわけですよね?
ニック:完全にそうだね。パワーポップからは大きな影響を受けた。初めてXTCやザ・ジャム、トーキング・ヘッズを聴いた時に”電気が走った”みたいな感覚に襲われた。まるでポップアートの絵画の音楽版みたいだったね。ちょっとひねくれてて、アートスクールがルーツだとわかるけど、音楽的にはそれ以外のどこにもルーツが見当たらない。そこが僕は好きだった。
─XTCのメンバーとバックステージで会うチャンスを得た時、彼らは親切に使っているアンプやギターの弦を教えてくれたそうですね。
ニック:度胸のある友人のおかげで、気づいたらXTCのバックステージにいて、アンプの上に座ってた。メンバーはライブを終えたばかりだったから、汗だくでソファに座り、僕らと話をしてくれた。素敵な時間だったよ。ファンの子供相手に、彼らは気さくに話をして、アンプを見せてくれたり、使っているギターの弦について教えてくれたんだ。しかもきっと毎晩そんな子たちがいたのに、嫌な顔一つせずね。それが凄く印象に残っていたし、自分たちも若いファンに対して、そう接しようと思った。
そのことが思わぬ形で返ってきたことがあってね。AIRスタジオにいた時、サインを求めてきた男の子に快く応じたら、その子はジョージ・マーティンの息子(ジャイルス・マーティン)だった。何年も経ってから彼に会った時、「ずっと覚えてたよ、ニック。スタジオを使いたい時は、いつでも言って」と言われたよ(笑)。
ヘアカット100とパンク×ファンクの交差点
─あなたとレスが初めてリリースした曲は1980年、ムーヴィング・イングランドというバンドで出した「Moving Back」で、ドラムはセックス・ギャング・チルドレンに入るロブ・ストラウドでした。「Whistle Down The Wind」(1983年のソロデビュー曲)の元になった曲ですが、歌い方もギターの弾き方も全然違って、パンキッシュでしたよね?
ニック:ああ、そういう時代に作られたからね。僕らがロンドンのリハーサルスタジオに通って、レコーディングするためにお金を工面してた頃。79〜80年かな。その頃、周りで流れていたのはモノクローム・セット、ザ・キュアーの「A Forest」……マンチェスターとリバプールが間違いなく音楽業界の主導権を握りつつあった。エコー&ザ・バニーメンの『Crocodiles』も素晴らしいアルバムだったね。
「Moving Back」の歌詞、〈Out the window, look what's happening / Skinny black trees /Theyre not moving(窓の外を見てごらん/何が起きてるか/痩せっぽちの黒い木々/誰も動いていない)〉は、まさに当時、目に映っていたことを歌ったんだ。それが時間と共に進化して、「Whistle Down The Wind」になった。その時はただの夢みたいだったけど、メロディだけがずっと残ったんだ。僕の初期の”ちょっとした曲”の一つさ。
─その頃のあなたはファイアー・エンジンズを気に入っていたようですね。彼らのようなスコットランドのギターバンドからも刺激を受けた?
ニック:ああ、スコットランドのバンドだから、というわけではないけどね。イングランドでもウェールズでも北フランスでも日本でも、どこの出身でも構わない。ただ、当時スコットランドのバンドは、どれもクールでアートポップの要素を持っていて、個人的にすごく共感できた。それに速くて、エレクトリックだった。XTCが好きな僕は、そこが好きだった。ザ・ジャムに感じるパワーもあったし。音楽に電気が走るようで、パワフルで、演奏すると会場中にエネルギーが漲り、脈を打つようだったんだ。ファイアー・エンジンズとかジョセフ・Kにはそれがあったんだよ。
ついこの間も、23スキドゥーを聴いたよ。ウォームアップのためにやったライブでダリル・イーズリーがDJをしていて、23スキドゥーの1stシングル(「Ethics」)をかけたんだ。あれがヒットしなかったなんて信じられないと思うくらい最高の曲だった。
─音楽の興味がファンクに移っていって、ヘアカット100で大きく変化することになったのは、何がきっかけだったんでしょう?
ニック:というか、ファンクとパンクは常に併走してたんだ。ディスコの隣にはいつだってパンクがあった。ラッツの「Babylon's Burning」みたいな曲がある一方で、アース・ウインド&ファイアーの「Boogie Wonderland」、ダイアナ・ロスの「Love Hangover」、ワイルド・チェリーの「Play That Funky Music」まで、最高のファンクが常にそばにあった。
それに人は遊びに行けば、必ず踊った。みんなファンクに合わせて踊ってたんだ。でもパンクも台頭していた。それがカルチャーだった。だから彼女と一緒の時はファンクに合わせて腰を振って踊り、男友達とはパンクに合わせてポゴしたんだ。
1975年あたりのサウス・ロンドンでは、踊るならハミルトン・ボハノンの「Disco Stomp」っていう感じで、誰もがあの曲に合わせて踊っていた。みんなで、あのギターに合わせて体を揺らしたもんだよ。で、しばらくするとナイル・ロジャースが登場し、さらに別のレベルまで持っていった。残響がない、角の取れた丸みのあるサウンドで、バーナード・エドワーズとのコンビは最高にタイトだった。誰もが……僕もレスも、シックについて「どうすればあのサウンドが出るんだ?」と何時間も話し合ったよ。大きな影響だった。加えて、デヴィッド・バーンのちょっと神経質なあの質感……そういったもの全てがあったんだ。
ファンクもダンスミュージックも、いつだってあった。オデッセイの「Going Back To My Roots」のピッキングで弾くギター、EW&Fの「Saturday Nite」のイントロで聴ける絡み合うようなギター……1本は細かなフレーズを弾き、もう1本はファンキーなカッティング/ストロークをするけど、それが絡み合う時、「こんな最高の音楽は他にない!」と思えるんだ。パワフルで、腰にストレートに響いて、動かずにはいられなくなっちゃうのさ。
僕自身はジャズもビッグバンドも聴いてきた。でもファンクは、イギリスの誰もが聴いていたよ。ブリッツ、レイシー・レディとか……クラブシーンは常に水面下で続いていた。パンクが起こっていようが、何が起こっていようが、人が踊って、ブギーする場所は必ずあったんだ。
バンド時代、ケンジントンの花屋の上で共同生活をしていた。レスとグレアムと僕は、夜になるとガールフレンドたちと遊びに出るんだけど、行くのはいつもケンジントンの地下のクラブで、そこは70年代で時計の針が止まったような感じのところだった。オリヴァー・トビアス主演の『ザ・スタッド』の世界さ。もしくは『サタデー・ナイト・フィーバー』みたいなね。その頃には時代遅れになってたけど、流行は終わっても人々の心の中には残っていた。チャートからは一時的に姿を消してたけど、常にカルチャーの中にはあったんだよ。
─よく訊かれることだと思いますが、ヘアカット100のサウンドはポール・ウェラーの音楽性の変化に影響を与えたと思いますか?
ニック:うん、そうかなと僕は思う。あの頃、カルチャーが変わっていっているのに彼は合わせていったんだと思う。それは彼自身も自覚してたはずだよ。彼は元々はパンクだった。次はニューウェイヴ、モッズ、一種のスカ……と変化を続けてきて、今度はまた別の何かが起きていた。だからごく自然な流れの中で、ザ・ジャムの時代が終わりに来ていて、これ以上は進めないと思ったんだろう。明らかに、ソウルフルな面が出るようになり、ダンスミュージックのルーツも見えてきていたからね。そこに、少しだけ僕らの影響があったのかもしれない。そう思える参照点はいくつかある。
ポールとは少しずつ親しくなっていったよ。でも、僕がヒールのある靴を履くと、彼はすごく嫌がった。彼は僕より背が高いからいいよね! 僕にはもうちょっと身長が必要だったから、スタイルを犠牲にして身長を優先した(笑)。ポールと僕との友情を考えると、それはいい判断ではなかったということさ。ポールとの関係はそんなちょっとしたことなんだよ。履くヒールを間違えたら、それでアウト!(笑)
─ヘアカット100がほとんど完璧と言えるアルバムを作って成功したのに、メンバー間の関係が悪くなってしまったのはなぜでしょう?
ニック:100%マネージメントのせいさ。初代マネージャーのカールは実に優秀だった。彼は最初からいてくれたので、すべてをわかってた。でも彼が去ってからは……だって僕らはビートルズが10年かけてやったことを、たった1年でやってしまったんだ。ブライアン・エプスタインがこの世を去ると、ビートルズもいろんな意味でバラバラになり、結局は解散してしまった。僕らに起きたことも似ていたね。詳しく話せるけど、そう面白い話じゃない。よくある話だよ。
ソロ転向、停滞と再浮上、そして今
─最初のソロ作『North Of A Miracle(邦題:風のミラクル)』(83年)は、ヘアカット100で試していた曲もいくつか含まれていますよね。
ニック:僕はあれをヘアカットのアルバムにしたかった。ビートルズを聴いて、エルヴィス・コステロの『Imperial Bedroom』を聴いていたから、ジェフ・エメリックにバンドをプロデュースしてもらうのが目標だったんだ。でもその時点で、僕のリードについてきてくれるメンバーが誰もいなかったので、それは不可能だった。ヘアカットの2ndアルバムになるはずだった曲が秘めた可能性を最大限に引き出すため、僕はソロという形をとったんだ。
デモの段階ではアズテック・カメラ風のアコースティックな感じだった。でもジェフとの作業で完全に自由にやれたおかげで、ピノ・パラディーノやデイヴ・マタックスにも参加してもらえた。ジェフの手にかかり、1曲1曲仕上がっていくのを目の当たりにして「凄い……」と思うしかなかったよ。こういう曲にしたいというイメージは持っていたけど、その想像を超えるものとして出来上がっていく様を目の当たりにして、受け止めるだけで必死だった。
─当時、あなたは本国では成長したソングライターとして存在感を示していて、ジャケットのアートワークも大人っぽくなりましたが、なぜか日本では真逆で、アイドルみたいな売り出し方をされていました。日本だけでシングルが発売された「My Pure Lady」というCMソングが象徴的ですが、日本での状況を奇妙に感じたことはある? 当時のあなたは若い女性にとても人気がありました。
ニック:そうだったの? 僕自身、日本での状況をあまり把握してなかったけど、楽しんでいたよ。日本にはNMEのような、何をやっても批判される音楽誌がなかったから、自由に楽しめたんじゃないかな。おそらく日本のレコード会社がそういう売り方を望んだので、僕もその流れに乗ったんだ。そしてそれを楽しんでいた。日本へ行くのも楽しかったよ。文化も活気も街の色彩も、すべてが魅力的で、まるでアニメ映画の世界に入り込んだような気分だった。
でも、どうして日本でそういう売り出し方をされたのか、僕にはわからないな。マネージメントがやったことでもないので、きっと日本のレコード会社が主導したんだろう。「My Pure Lady」はシャンプーのCMだよね? 〈You're so pure, my lady〜〉っていうやつ。イギリスであれをやったら、”キャリアの自殺行為”になっただろう(笑)。CMソングをやるっていうアイデア自体は気に入ってたんだ。
─『Postcards From Home』(1986年)を最後にAristaを離れ、Repriseで『I Love You Avenue』(88年)を出した後、5年のブランクを経てEpicからリリースした『From Monday To Sunday』(93年)は会心のアルバムになりました。移籍が続いたあの時期には、何を学びましたか?
ニック:何年もレコード契約が取れない時期があったけど、その時は「曲は書けているのだから、創作意欲は失ってない」と自分に言い聞かせてたよ。新曲のデモを作ったし、曲は作り続けていた。でも生活していかなきゃならなかったから、大変だったよ。
─『Tangled』(95年)と『The Apple Bed』(96年)でロック色が強くなったのは、90年代のサウンドに合わせたところもあった?
ニック:クリエイションに所属していたことは影響大だったし、ブリットポップも大好きだった。何年も前から、ああいう音楽を聴きたいと思ってたんだ。ブラーはXTCとそう遠くない。聴いた瞬間から、いいと思った。
80年代終盤は、テクノトロニックの「Pump Up The Jam」やブラック・ボックスの「Ride On Time」といったダンスミュージックが全盛だったから、ギターを持ってシンガー・ソングライター的なことをしたり、ビートルズやザ・スミスの影響が少しでも感じられると、もう主流とは見られなくなる時代だった。だからレニー・クラヴィッツやクラウデッド・ハウスなどによって”楽曲”がUKのメインストリームに戻るまでは、「僕には居場所がないな。音楽はどうなっちゃったんだ?」と感じていた。
ところがブリットポップが生まれ、大ヒットを生むようになった。僕はその全ての瞬間を楽しんだよ。自分は90年代のために生まれてきたんじゃないかと思ったくらいだ。クリエイションにいられたのも、本当に嬉しかった! プライマル・スクリームの連中とつるんだり、ボビー・ギレスピーの髪を見て「僕もずっとああいう髪型にしたかったんだ!」と思ったり(笑)。残念ながら、僕にはボビーみたいな長髪は似合わなかったので、結局はこの髪型にするしかなかったんだけどね。まあ、そもそも僕は猫っ毛なんで、仕方がないかな。ボビー・ギレスピーは髪が太くて、量が多いんだろうな。だからああいうふうにキマるんだよ。

Photo by Steve Ullathorne
─2017年のソロ作『Woodland Echoes』はリラックスして取り組んだ様子が伝わってくる良いアルバムでしたね。今回の来日公演ではそこからの曲も聴けそうですか?
ニック:ああ、そうするよ!「Baby Blue Sky」でもやろうかな。ライブでやってて、凄く好きな曲なんだ。今回は再結成したクイーンでベースを弾いてたニール・フェアクラフが一緒に来てくれるよ。
─昨年、セイント・エティエンヌの「The Go Betweens」にフィーチャーされましたね。その時のことを教えてもらえますか?
ニック:ボブ・スタンリーから曲の一部がいくつか送られてきて、「これを一緒に曲にしない?」と言われたので「いいよ」と引き受けた。ちょうどツアー中だったので、少し遅くなってしまったけれど、ギグのあとにホテルの部屋で、送られてきた曲を聴いてみた。
すると、ある男女の姿が思い浮かんだんだ。二人は湖畔に建つホテルにいて、時代は今ではなく、1920年代とか30年代という感じ。男女は人目を避けて会っていた。密会だよ。彼らはスパイだったのかもしれないし、不倫してたのかもしれない。もしくは秘密の仕事の同僚だったのかもしれない。二人の間には恋愛的な緊張感もあった。二人がいたのはスイスのジュネーブ湖のような湖が窓の外に広がる大きなホテルだ。それで、そのイメージを歌詞にした。実際にそう歌ってるわけじゃないけど、頭の中にはそんな情景が広がってたんだ。今まで書いた中でも、一番簡単に、スムーズに書けた歌詞だった。どこがサビで、どこがエンディングかもわかったし、「(オーストラリアの)ゴー・ビトゥイーンズ的な曲だ」とも思った。
家に戻り、キッチンのテーブルでLogicで切り貼りして、彼らにファイルを送った。「2度と連絡はないかもしれないけど、どうなるか見てみよう」と思ってね。それをすごく気に入ってもらえたので、ボーカルを入れ直し、それがアルバムに収録されたというわけさ。僕がイメージしていたのは男女二人だったこともあり、最終的に、サラと僕のデュエットのような形になった。いつか、ライブでも歌ってみたいよ。実はその予定もあったんだけど、ヘアカットのツアーの話が持ち上がって、立ち消えになってしまったのでね。
─最近は、ヴルフペックやコリー・ウォンがお気に入りだそうですね。
ニック:僕は”ミュージシャン”が好きなので、いつもチェックしてる。だからピノ・パラディーノとも、彼がロンドンに来たばかりの頃から友達だったんだ。コリー・ウォンのミュージシャンとしての技量には圧倒されるよ。ホーンセクションも、アレンジも、リズムギターも、ドラムも、何もかもが凄い。大大大ファンだよ。
─まったく関係ないんですが、数日前にナイト・レンジャーのジャック・ブレイズにインタビューした時、意外にもヘアカットの名前が出てきて驚きました。80年代に入ってハードロックが時代遅れになっていた頃、ライブをやると「ヘアカット100みたいにやれ!」と野次られたそうです。それくらいアメリカでもヘアカットは影響力があったんですね。
ニック:ホントに!? すごいことだよね。自分の音楽が誰に、どう影響を与えているのかなんて、当人にはわからない。ただ曲を作って、それが世に出ていくだけだから。たんぽぽの綿毛が風に乗ってどこへ飛んでいくかわからないように、どこへだっていく可能性があるんだ。
僕がインターネットが好きなのはそういうところさ。良くも悪くもストリーミングによって、すべては変わった。でも良い面の方がはるかに大きいと僕は思ってる。だって、誰もが自分が聴きたい音楽を、なんでも聴けるようになったんだ。消えてしまったと思っていた音楽も、実は消えていない。なくなったんじゃなくて、時代を超えたものになったんだ。それって素敵なことじゃない? アーティストとして、それ以上のことってないよ。
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ニック・ヘイワード来日公演
2026年10月12日(月・祝)Billboard Live OSAKA
1st Stage OPEN 15:00 / START 16:00
2nd Stage OPEN 18:00 / START 19:00
2026年10月14日(水)・15日(木)Billboard Live TOKYO
1st Stage OPEN 16:30 / START 17:30
2nd Stage OPEN 19:30 / START 20:30