Chantilly Arts & Elegance 2026 その2 コンクールの裏側|芝の上の時間と、ロープの外の900台

コンクール・デタは、夕方の表彰式で終わる。だがシャンティイの一日は、その前後の時間にこそ本当の顔を見せる。朝、ル・ノートルの芝にトレーラーから降ろされたばかりの車が、ロープの内側で静かに置かれている時間。審査員がボンネットを開けさせ、オーナーが白衣で手を入れ、パレードのために100年前のマグネトーが火を入れる時間。そして公園の向こう側、ロープの外で、40のクラブが持ち寄った900台が思い思いに芝を占領している時間。前回はコンクールの結果を追ったので、今回はその周りを歩いてみたい。

【画像】ブガッティT35、アミルカー、ポルシェ904、ミウラ、ファセル・ヴェガなどの名車がシャンティイ城を埋め尽くす(写真23点)

磨かない車たち

芝の上で最初に足を止めたのは、シルバーの塗装に60年分の傷と染みをそのまま残した1964年のポルシェ904 GTSだった。ブッツィ・ポルシェが911に続いて手がけたデザインで、鋼管フレームにグラスファイバーのボディを接着するというポルシェが初めて試みた構造を持ち、ミッドにフールマンの4カム2リッターを積む。GTのホモロゲーションに必要な100台をぎりぎりで作り、1964年のタルガ・フローリオで1-2フィニッシュ。この個体は一度も塗り直されておらず、それでオリジナル・コンディションのクラスを制した。磨いた車が並ぶコンクールで、審査員はこの正直さに1位を与えた。

同じクラスで2位に入った1924年のサンビームも、ブリティッシュ・レーシング・グリーンが100年前の塗装のまま。ブガッティのクラスにいた1926年のタイプ37も、褪せたブルーを残してボンネットを開けていた。今年のシャンティイは、磨かないことが評価された年だった。

ブガッティの朝

表紙にした1台は、パレードへ向かう前のブガッティ・タイプ35である。汚れの残るアルミの鋳造ホイールに、フロントアクスルに巻いた工具。エットーレ・ブガッティは1924年のリヨンのフランスGPでこの車を世に出し、エンジンと同じ思想をホイールにまで持ち込んだ。スポークの代わりにアルミの鋳物で8本のブレードとブレーキドラムを一体にする。軽く、放熱に優れ、そして美しい。中空の前車軸、馬蹄形のラジエーター、テーパーで絞ったテール。100年前にモルスハイムで決められた形が、1本も線を変えずにここにある。

その隣で、ブガッティのマカロンを袖に付けた白い作業着のメカニックがボンネットを開けていた。運転席にはフラットキャップの持ち主。100年前のマグネトーとキャブレターは、芝の上でも手をかけ続けなければ動かない。作業着に付いた油の染みが、そのまま出品書類の一部のように見えた。

芝の別の一角には、ブガッティ本社の展示があった。手前は1924年のリヨンの車を3Dスキャンして75%で作り直した電動の「ベビーII」、500台限定で最高速68km/h。1926年にエットーレが息子ロランのために作った半分サイズの「ベビー」の再来だ。そしてその後ろに、白と淡いブルーのヴェイロン16.4。これはただのヴェイロンではない。量産前に5台だけ作られたプロトタイプの「5.1」で、2005年、8リッターW16クワッドターボの1001馬力と400km/hを証明するためにネバダ州のブラックロック砂漠を走り、その写真が世界中の紙面を飾った個体である。今年5月にヴィラ・デステに出品され、オーナーはメゾン・ラクメのアントワーヌ・トヴェル。先日、パリ・デザイン・ウィークで透明なアートカー「アストル・モビル」を取材したときの、あのアントワーヌだ。1924年の設計図と2005年のプロトタイプが、同じ芝の上に並んでいた。

小さな車と、最初の事故

戦前のオープンカーのクラスで3位に入った1925年のアミルカーCGSは、この日の芝で一番小さな車のひとつだった。パリ北郊サン=ドニでラミーとアカールが興し、二人の名を組み替えて社名にしたアミルカーは、税制の優遇を受ける軽量サイクルカーの代表格で、1074ccのサイドバルブで約30馬力、500kg台の車重に4輪ブレーキを与えて120km/h近くまで伸びた。「小さなブガッティ」と呼ばれ、フランスの若い富裕層に愛された。1927年にニースでイザドラ・ダンカンがスカーフを車輪に巻き込んで命を落としたのも、このアミルカーのGSである。

その対極にいたのが、1908年のパナール・ルヴァッソール120 HPグランプリだった。4気筒で12,824cc、1500回転で120馬力。同年のディエップのACFグランプリでアンリ・シサックが乗り、9周目にタイヤがバーストして木に激突した。シサックとメカニックは命を落とし、グランプリ史上最初のドライバー死亡事故として記録されている。残骸は愛好家に買い取られ、パリのポルト・マイヨの個人コレクションに半世紀眠ったのち、1965年にセルジュ・ポッツォリが見つけ出して修復し、シュルンプ兄弟が引き取った。いまはミュルーズの国立自動車博物館の所蔵で、同博物館はこの日、特別賞を受けている。芝の上では、120年前の悲劇を知らなければただの美しい青い機械だ。だから僕はプレートを読む。

20層の塗装

ミウラ60周年のクラスには、1966年のジュネーブ・ショーのプロトタイプを含む6台が集まっていた。1位は前回書いたブラウンのSV。だが人が一番立ち止まっていたのは、1968年のP400だった。ボディの表面が等高線のような模様に覆われている。ラッピングではない。修復のために塗装を落とし始めたところ、20層を超える塗膜が次々に現れ、その断面を研ぎ出した状態でそのまま芝に置かれているのだ。オーナーによれば、この個体はベルトーネとランボルギーニが新色の反応を見るための実験台として使われ、幾度も塗り替えられたのだという。真偽はともかく、黄、赤、緑、青と積み重なった層は、1960年代末のサンタアガタが顧客に提案した色の記録そのものだった。ミウラの60年を一番雄弁に語っていたのは、最も未完成な1台だった。

ひし形の車

ピニンファリーナのクラスの端に、1960年の実験車「X」がいた。4輪をひし形に配置する。前中央の1輪が操舵、後中央の1輪が駆動、ドアの後ろの左右2輪は車体を支えるためだけにある。トリノ工科大学の空力学者アルベルト・モレッリの理論をバッティスタ・ピニン・ファリーナが形にしたもので、フィアット1100系の1089cc、43馬力を斜めに積み、デフを省いて後輪1本を直接回す。前面投影面積を絞った涙滴型のボディは空気抵抗係数0.23。2020年代の電気自動車に匹敵する数字だ。テールの垂直フィンは横風に弱い涙滴を直進させるための安定板で、装飾ではない。ピニン・ファリーナは自らこの車を運転してメーカーを回ったが量産には至らず、通常の4輪配置に戻した「Y」に発展した。2007年までピニンファリーナ博物館に保管され、2015年のオークションで33万ドル。現在はハーグのラウマン博物館の所蔵である。

ザガートの謎

ツール・ド・フランス・オートモビルのクラスに、ゼッケン139の白いポルシェがいた。プレートには「356Aカレラ・スピードスター・ザガート、1958年」。これが本当なら大変なことだ。

1957年、フランス選手権王者のクロード・ストレーズは新車のカレラ・スピードスターをミラノに持ち込み、ザガートに軽量の空力ボディを架装させた。一枚ものの曲面スクリーン、赤い縦フィン、1.5リッター4カムのカレラ・エンジン。1958年のツール・ド・フランス・オートモビルでは、ランスの高速ステージでジャンデビアンのフェラーリ250 GT TdFに次ぐ2位に入っている。翌年2月、同じランスのティロワで車は右に跳ね、ストレーズは32歳で命を落とし、車は事故現場から消えた。「二度と姿を見せなかった」というのがこの車の定説で、2016年からザガートが数枚の写真だけを頼りに9台を再現した企画には「サンクション・ロスト」の名が付いている。

ディディエ・ディンが1958年の車として出品したこの1台が、蘇った幻なのか、幻を模した1台なのか。プレートはそこまで語らないし、僕にも分からない。だが芝の上で、この形はストレーズが望んだ通りに軽く、低く、美しかった。

F40、来年40歳

F40は来年2027年に誕生40周年を迎える。1987年7月、創業40周年を記念してエンツォ・フェラーリが生前最後に承認した車だ。今年のシャンティイはそれを1年先取りする形で、公道用のF40を4台そろえてメインの舞台を走らせた。赤の列がどこへ行っても人だかりを連れて歩く。

GT1クラスには、その競技版がいた。1992年のF40 GTE。パドヴァのミケロットが仕立てたF40 LMを、1994年に始まるBPRグローバルGTシリーズ向けにさらに手を入れたもので、ツインターボのV8は3.5リッターに拡大されて650馬力を超える。カーボンのワイドボディにルーフスクープ、大型のリアウィング、ロールケージ。1995年から1996年にかけてアンデルストープやヴァレルンガ、ディジョンで勝ち、マクラーレンF1 GTRとポルシェ911 GT1の時代に最後の一矢を報いた車である。4台の公道用が笑っているとすれば、この1台だけは笑っていない。

ワニの口の中

コンセプトカーのクラスで2位に入ったのは、アルピーヌとラコステが作ったワンオフ「Beware of the Crocodile」だった。土台は顧客向けの電動ラリー車A290ラリー、220馬力。アルピーヌのデザイン責任者アントニー・ヴィランのチームはラコステのワニの赤い舌から出発し、ロールケージ、ダッシュボード、ステアリング、シートまでを赤一色に染めた。乗り込む者は「ワニの口の中」に入り、「クロコピロット」となる。外装はアルプスの雪と氷を思わせる青みがかった白、リアウィンドウの位置には待ち伏せするワニの頭。車体の内外には290匹のワニが隠され、デザイナーは配置を決めるだけで半日を費やした。ブルイヤールの1600馬力の隣で、フランスの遊びの精神は臆していなかった。

ロープの外

コンクールのロープの外には、40のクラブが持ち寄った900台が城の公園を埋めている。参加できるのは原則1971年以前の車と、主催者が「ハッピー・フュー」と呼ぶリストに選ばれたモデルだけ。個人のコレクターはエスパス・コレクションに集められる。そしてこのクラブ展示は、単なる駐車場ではない。フランス自動車遺産連盟(FFVE)とともに審査される「グラン・プリ・デ・クラブ」の舞台であり、展示スペースの質、車の多様性と独創性、そしてガーデン・パーティの洗練、つまりテーブルの花や食器、服装の統一感まで評価の対象になる。クラブは何か月も前から準備し、当日は朝のうちに白いクロスを広げ、時代に合わせたピクニックのセットを組み上げる。2014年のクラブ・ドライエに始まり、クラブ・ドラージュ、フィアット・ファン・クラブ、アミカル・ファセル・ヴェガ、ロールス・ロイス・エンスージアスツ・クラブ、ヴァンセンヌ・アン・アンシエンヌと続いた歴代受賞クラブの名は、そのままフランスの旧車文化の地図になっている。今年はClub AVEC'Lがその列に加わった。

コンクールの車は動かない。ロープの内側で誰も触れない。だが公園の車は違う。ボンネットが開き、子どもがシートに座り、オーナーが自分の車の話を延々と語ってくれる。僕は毎回、コンクールの撮影が一段落した午後、この公園を歩くのを楽しみにしている。

ロールス・ロイス・エンスージアスツ・クラブ・フランスの列には、シルヴァー・シャドウとシルヴァー・スピリットが半世紀分のパルテノン・グリルを並べていた。1965年のシャドウはロールスとして初めてモノコック構造と4輪独立懸架を採用し、シトロエンから借りた油圧のセルフレベリングを組み込んで15年間に3万台以上を作った同社史上最多の量産モデルである。2022年のグラン・プリ・デ・クラブ受賞クラブ。

モーガン・クラブの列で目を引いたのは、エンジンカウルに英国旗と日本の国旗を並べた3ホイーラーだった。2012年にグッドウッドで発表された200台限定の「スーパードライ・エディション」で、意味をなさない日本語を服にあしらう「疑似日本風」で知られる英国のファッションブランドとの共作である。リアには軍用機風の「SUPER DRY JPN」の文字、車体下部には日本語の書き文字、ダッシュボードには「TOKYO」のラリープレート。日本人の僕には笑うしかないが、S&S製の2リッターVツインとマツダMX-5由来の5速を積む1台は、1909年にH・F・S・モーガンが作った三輪車の直系の子孫でもある。

アミカル・ファセル・ヴェガの列は、フランス製グランツーリスモの短い栄光と転落を1列で語っていた。クライスラーのV8を積んだHK500でフランス最速の市販車となり、パリの高級顧客を掴んだファセル・ヴェガを沈めたのは、廉価版ファセリアの自社製エンジンだった。ピストンの焼き付きが相次ぎ、保証修理の費用が経営を圧迫する。ボルボのB18に積み替えたファセルIIIで信頼性は戻ったが時すでに遅く、1964年に工場は閉じた。2019年のグラン・プリ・デ・クラブ受賞クラブ。

クラブ・ドライエは、丸裸にしたシャシーにエンジンをかけて見せていた。ソレックスのキャブレターを3基並べた3.5リッターの直列6気筒はドライエ135の心臓で、1938年のル・マンを制した。ボディを取り払うと、そこには消防車と同じ設計思想の頑丈な梯子型フレームが残る。真鍮のプラグコードを見つめるオーナーたちの顔は、コンクールの芝生よりも整備工場のそれに近い。このクラブは2014年、第1回のグラン・プリ・デ・クラブを受賞している。コンクールのロープの内側に3世代のシャプロンが並んだ日、ロープの外でもクラブがそれに応えていた。

そして、ル・マン・クラシックの「リトル・ビッグ・マンズ」のブース。7歳から12歳の子どもたちが、ル・マンの名車を半分の大きさにしたガソリンや電動の車でル・マン式スタートを切るパレードで、モーガン・プラス4とACコブラの縮小レプリカに、ゴーグルを付けた少女が収まって手を振っていた。シャンティイの主催者がル・マン・クラシックと同じピーター・オートであることを、この一角が一番分かりやすく教えている。

時計の歯車で走る

芝の上に、黒と金の二輪が2台並んでいた。ブラフ・シューペリアRMB01、150台のうちの23番と62番。1919年にノッティンガムで生まれ、T・E・ロレンスが7台を乗り継いだ「モーターサイクルのロールス・ロイス」を2013年にトゥールーズで再興したティエリー・アンリエットと、リシャール・ミルが18か月をかけて共同開発した1台である。997ccの88度Vツインは5000系アルミの塊から5軸の工作機械で削り出され、160kgの素材が23kgの部品になる。DOHC4バルブで130馬力、乾燥重量159kg、最高速は250km/h超。フロントはブラフの象徴であるフィオール式ダブルウィッシュボーン、ホイールの分割はトゥールビヨンのキャリバーに想を得ている。

コックピットには、トノー型のケースにスケルトンの文字盤を収めた機械式のメーター。針を動かすのは電子ではなく歯車で、その機構を透かして見せる作法はリシャール・ミルの時計そのものだ。アンリエットはこの機械を「トゥールビヨンがエンジンだったら、こんな形になる」と言った。タイトルパートナーの時計ブランドが芝の上に置いたのは、時計ではなく、時計の歯車で走る二輪だった。

夕方

パレードが終わり、表彰式の拍手が水鏡の向こうから聞こえてくる頃、公園のテントは一つずつ畳まれていく。ワインのボトルが空き、麦わら帽子がテーブルに置かれ、誰かが車の脇で昼寝をしている。コンクールは2年に一度だが、彼らはその間の2年間、毎週末どこかでこうしているのだ。ロープの内側の100台が「世界で最も美しい車」だとすれば、ロープの外の900台は、その美しさを毎日使っている人たちの車である。シャンティイの本当の姿は、たぶんそちらにある。

写真・文:櫻井朋成 Photography and Words: Tomonari SAKURAI