Chantilly Arts & Elegance 2026 その1 コンクール・デタ|磨かない勇気と、ナンバーを付けたプロトタイプ

パリから北へ50キロ、シャンティイ城。9月13日の日曜日、8回目となるChantilly Arts & Elegance Richard Milleが開かれた。2014年にピーター・オートがリシャール・ミルと組んで始めたこのコンクールは、2年に一度、ル・ノートルの庭園に世界中のコレクターの車を集める。今年は15クラスに約100台、来場者は3万人に迫った。

【画像】世界中の粋を極めたクラシックカーがフランスのシャンティイ上に集まる「Chantilly Arts & Elegance Richard Mille」(写真25点)

戦前の頂点、ロンドン仕立てのドラージュ

戦前部門のベスト・オブ・ショーは、1933年のドラージュD8 SSだった。ルイ・ドラージュが1929年に世に出した直列8気筒4リッターのD8はフランスの高級車の頂点を狙った1台で、シャシーを低く短くしたSSはその最もスポーティな仕様である。ただし、この個体のボディはパリ製ではない。ロンドンのJ・ガーニー・ナッティング商会が架装し、ベントレーの流麗なボディで名を馳せたA・F・マクニールが線を引いた。クリームのボディにワインレッドの屋根、ドアの上で一度持ち上がってテールへ落ちるベルトライン。フランスのシャシーに英国の趣味を載せた稀な組み合わせが、審査員の心をつかんだ。

同じ戦前クーペのクラスには、フィゴーニ・エ・ファラスキが架装した1937年のタルボ・ラーゴT150-C SS「グット・ドー」もいた。フランス語で「水滴」。屋根からテールへ流れる曲線に継ぎ目がなく、ブラックとシルバーのツートーンでパレードに向かう黒いキャビンから、オーナーのジョルジョ・ジロンディが手を振っていた。審査員特別賞。

戦前のオープンカーのクラスもドラージュだった。1位は1931年のD8 4シーター・スポーツ・ツアラー、こちらはパリのアンリ・シャプロンの架装で、ラジエーターキャップにはルネ・ラリックの「ヴィクトワール」が据えられている。風になびく髪を翼のように様式化した1928年のガラスのマスコットは、戦前フランスのコンクール・デレガンスがどういうものだったかを、それだけで語っていた。今年のシャンティイは、ドラージュの日だった。

シャプロンの手で3世代

「ドライエのあらゆる形」のクラスは、アンリ・シャプロンの回顧展のようだった。1935年の138スポール「クープ・デ・ザルプ」は135の直前のモデルで、ラリー・デ・ザルプの無失点走破を記念した名を持つ。ボディはシャプロン、線を引いたのは専属デザイナーのジャン・フランソワ。幌を上げ、助手席に少女を乗せてパレードに滑り出す姿は、この車が本来そうやって使われてきたことを思い出させた。

クラス1位は1947年の135 MSカブリオレ「ヴデット」。同年のパリ・サロンに出品された個体そのもので、現存するヴデットは数えるほどしかない。そしてその隣に、同じシャプロンが架装した1948年の175 Sグラン・リュクス・カブリオレ。戦後のドライエが135から175へ移ろうとした短い時期を、1人のカロスリーの仕事で見比べることができた。淡い青と濃い青のツートーンに、リアホイールを覆うスパッツ。ドライエはこの175で戦後の最高級市場に賭け、そして数十台で終わった。

磨かない勇気

エルコレ・スパーダへのオマージュのクラスで1位になったのは、1961年のアルファロメオ・ジュリエッタSZ「コーダ・トロンカ」だが、僕が足を止めたのはその塗装だった。ボンネットの左半分だけ塗装が剥がれ、アルミの地肌と下地が露出している。

この個体はコーダ・トロンカの試作車、つまりザガートに入ったばかりの23歳のスパーダが、丸い尻を垂直に切り落とす作業を実際に行った1台である。アメリカで半世紀近く眠っていたところを発見され、ミラノのコレクター、コッラード・ロプレストの手に渡った。ロプレストは美術品の修復と考古学の手法を車に持ち込み、ボディの半分だけを丁寧にクリーニングし、もう半分は当時の埃ごと透明のマットラッカーで封じ込めて時間を止めた。この保存手法はヴィラ・デステでFIVA保存賞を受け、ユネスコの自動車遺産会議にも招かれている。磨き上げることだけが車を守ることではない、という問いをそのまま芝の上に置いた1台だった。

同じクラスには、スパーダが30年後にザガートで手がけた1993年のフェラーリFZ93が出ていた。512 TRをベースに4943ccの水平対向12気筒をそのまま残し、ボディを全面的に作り直したワンオフで、四角く切り立ったテールにはSZと同じ「切り落とし」の手法が繰り返されている。オーナーのアントニオ・カレッリがエンジンカバーを跳ね上げると、人垣ができた。

磨かない勇気は、ほかにもあった。オリジナル・コンディションのクラスで2位に入った1924年のサンビーム・グランプリ・ワークスカーは、ブリティッシュ・レーシング・グリーンの塗装を一度も塗り直していない。前年に非過給の2リッター直列6気筒でフランスGPを制したサンビームが、スーパーチャージャーを加えて臨んだ車で、シグレイヴがこの型でサン・セバスティアンGPに勝っている。青白い煙を残してリシャール・ミルのアーチをくぐる姿は、100年前のスタートラインそのものだった。審査員特別賞も受けている。

ブガッティのクラスでも、1926年のタイプ37が褪せたブルーの塗装をそのまま残し、ボンネットを開けて審査を受けていた。タイプ35と同じシャシーに1496ccの4気筒を積んだヴォワチュレット用の車で、値段は35の半分ほど。アマチュアがグランプリの世界に手を届かせるための車だ。クラス3位の1921年タイプ13ブレシアは、ボディに「N.S.W.」の文字を残していた。ニューサウスウェールズ、つまりオーストラリアで競技に使われてきた来歴である。

ペロンのフェラーリと、海辺のフェラーリ

フロントV12フェラーリのクラスでは、ギアが架装した1952年の212インテル・クーペ・スペチアーレが1位。1952年のパリ・サロンでアルゼンチンのペロン大統領が手に入れ、自分の愛車にした車で、数奇な運命をたどったのち、2024年のカヴァリーノ・クラシックでベスト・オブ・ショー、同年のペブルビーチでも表彰台に上がった。

同じクラスの端には、フロントV12がレースで最後に勝った姿として、1970年の365 GTB/4デイトナ・コンペティツィオーネ(シャシー13855)が置かれていた。グループ4のリベット留めワイドフェンダーを持つ競技仕様で、デイトナは1972年から1974年までル・マンのGTクラスを3連覇している。そしてクラス3位が、365 GTC/4のシャシーを使ってドアも幌も取り払った「ビーチカー」。フィアット・ジョリーに始まるリヴィエラの避暑地の伝統を、V12で再現した1970年代の遊び心である。ペロンの車から18年、同じフロントV12という括りの中に、これだけの幅がある。

スーパーファストと、水滴の跡

戦後のベスト・オブ・ショーは1956年のフェラーリ410スーペルアメリカ。ただの410ではない。1956年のパリ・サロンでピニンファリーナが出品した「スーパーファスト」、シャシー0483 SAそのものである。4962ccのランプレディV12にツインプラグのヘッドを組んで380馬力を謳い、ピラーレスのグラスハウスと後端の小さなフィンで、当時のイタリアがアメリカの富裕層に向けて描いた未来を1台に凝縮した。ホワイトとグレーグリーンのツートーンが城のテラスの前を通り過ぎるとき、拍手は長く続いた。

耐久バルケッタのクラスには、1947年のチシタリア202 SMMヌヴォラーリ・スパイダーがいた。ガレッラが架装し、ジョヴァンニ・サヴォヌッツィが線を引いた1089ccのバルケッタで、同年のミッレミリアでヌヴォラーリが1.1リッターの小排気量ながら総合2位まで追い上げた伝説からその名を受けている。クラス3位。

ナンバーを付けたプロトタイプ

ツール・ド・フランス・オートモビルのクラスで1位になった1971年のマトラMS650には、ナンバープレートが付いている。「339 XQ 75」。当時の登録番号そのものだ。

ベルナール・ボワイエが設計したグループ6のル・マン用プロトタイプで、2993ccのMS12型V12は約430馬力を発生する。1971年9月、フランス一周4500kmのツール・ド・フランス・オートモビルに、マトラはこの純粋なレーシングカーをそのまま公道に送り出した。ステアリングを握ったのはジェラール・ラルースと、『レキップ』紙の記者だったジョニー・リヴ。エントラントはピエール・バルディノンの「マ・デュ・クロ」名義で、ゼッケン134のこの車、シャシー03は総合優勝を飾り、前年の1-2フィニッシュに続いてマトラに2年連続の勝利をもたらした。姉妹車の135号車はコースアウトで姿を消している。出品はル・マン24時間博物館(M24)。

ミウラ60年

ミウラ60周年のクラスは、1972年のSVが1位、1970年のSが2位、もう1台のSVが3位だった。1位の車は深いブラウンにゴールドのホイールとサイドシル、1970年代初頭のイタリアそのもののような配色でリシャール・ミルのアーチをくぐった。3929ccの横置きV12は385馬力に達し、リアトレッドは130mm広げられ、初期型の「まつ毛」は消えている。ガンディーニの原案が6年かけて完成に近づいた形と言っていい。

GT1、3つのル・マン

日本の読者に一番伝えたいのはこのクラスかもしれない。「GT1、グランド・ツーリングの黄金時代」で1位に選ばれたのは、1998年の日産R390 GT-1だった。ニスモとトム・ウォーキンショー・レーシングが共同開発し、3.5リッターのVRH35L型V8ツインターボをミッドに積む。1997年のデビュー年はトラブルに泣いたが、リアを長く伸ばした1998年仕様では出走した4台すべてが完走し、星野一義、鈴木亜久里、影山正彦の32号車が総合3位に入った。日本のメーカーがル・マンの表彰台に立った数少ない瞬間である。ペンズオイルの黄色をまとった1台が、噴水と城を背にした砂利の上で、ポルシェとマクラーレンを従えて1位に選ばれた。

2位はモービル1のワークスカラーをまとった1997年のポルシェ911 GT1。名前こそ911だが、キャビンより後ろは962譲りのミッドシップ構造で、3.2リッターのフラット6ツインターボは600馬力に迫った。この個体は1997年のル・マンをダルマス、ケレナーズ、コラールの3人で戦い、首位を走りながら残り2時間を切ったところで戦列を離れている。

3位の1995年マクラーレンF1 GTRは、ゼッケン42、白いボディにフランスの彫刻家セザールが描いた「アートカー」だった。BMWアートカーの仕掛け人でもあった競売人エルヴェ・プーランが自ら乗り込み、BBAコンペティションから1995年のル・マンに出走して完走している。1990年代後半のGT1は、ホモロゲーションのために公道仕様を1台だけ作れば良かった時代で、メーカーは事実上のプロトタイプをル・マンに持ち込んだ。その3台が、それぞれ本物のル・マンの物語を持って芝生に並んでいた。

1907年、ディエップ

しかし今年のシャンティイで僕が一番長く立ち止まったのは、1907年のフィアット130 HPの前だった。トリノの国立自動車博物館(MAUTO)から来た、ゼッケン「F-2」の車。

これは、その年のディエップで開かれたACFグランプリをフェリーチェ・ナッツァーロが制した、その車そのものである。1907年のフォーミュラは燃料消費量だけを縛り(100kmあたり30リッター)、重量も排気量も自由だった。ジョヴァンニ・エンリコが設計したエンジンは4気筒で16,286cc、90度のV字に開いたオーバーヘッドバルブと半球形の燃焼室を持ち、1600回転で130馬力を発生する。ピストン1個の重さが4kg以上。8000本を超える真鍮の細管を束ねたラジエーター。車重1025kgで最高速は200km/hに届いた。ナッツァーロはレース序盤を後方で待ち、9周目に首位を奪ってそのままゴール。前年の優勝者シスのルノーに6分半の差を付け、平均時速113.6km/hで走り切った。同じ年、フィアットはタルガ・フローリオとカイザープライスも制している。

MAUTOには1957年にフィアットから寄贈され、2019年から2021年にかけて機能面の修復を受けた。エンジンには当時の「FN」の刻印が残る。ボンネットを開けた瞬間、銅のパイプと真鍮の光沢が目に飛び込んできて、周りの若いオーナーたちが何も言わずに覗き込んでいた。ACFグランプリの精神のクラスで1位。

119年

コンセプトカー、レストモッド、ワンオフの部門はブガッティ・ブルイヤール。8リッターのクワッドターボW16で1600馬力、世界に1台だけを作る「プログラム・ソリテール」の第1作で、名前はエットーレ・ブガッティが愛した馬に由来する。W16を積む新作としては最後の1台で、この日シャンティイでオーナーに引き渡された。

1907年のフィアットから2026年のブガッティまで、119年。夕方、水鏡に城の影が長く伸びる頃、その全部が一台ずつ芝を横切っていった。次にこの芝生にエンジンの音が戻るのは、2028年の9月である。

写真・文:櫻井朋成 Photography and Words: Tomonari SAKURAI