坂本龍一『async』とはなんだったのか? 《async – immersion》東京展で体感する、晩年の傑作の本質

2023年の「AMBIENT KYOTO」で発表され、大きな反響を呼んだ坂本龍一+高谷史郎による《async – immersion》が東京へ。8月28日より「RYUICHI SAKAMOTO + SHIRO TAKATANI AMBIENT KYOTO - TOKYO」として、東京・麻布台ヒルズギャラリーで開催中だ(会期は10月25日まで)。坂本の晩年の傑作『async』を、巨大スクリーンと立体音響によって空間そのものへと拡張する本展。『async』リリース当時、生前の坂本にインタビューした音楽ライター・八木皓平が現地を訪れ、その音楽的背景を紐解きながら、作品がいま改めて投げかけるものを考察する。

「非同期」と自然──立体音響で体感する『async』

『async』はそもそもサラウンド~マルチ・チャンネル化することを目的として制作されていた。だから坂本が「設置音楽」と呼んだ、複数のスピーカーを配置することで音を空間に立体的に設置してみせた《async – immersion》は、『async』のひとつの理想的な展開ともいえる。今回の展示は、横幅26.4メートルにおよぶ巨大スクリーンが設置された空間で、「AMBIENT KYOTO 2023」と同等のスケールを体験できる。

まず結論から言うと、『async』という作品の思想的/音楽的な背景を考えると、この展開は同アルバムを考えるうえで極めて意義深いものだった。ホームリスニングでは経験できなかった『async』という音楽が持つポテンシャルを体感できる、またとない機会であることは間違いない。

『async』のコンセプトで最も重要なもののひとつは、タイトルにもなっている「async」=非同期だ。坂本は同アルバムの多くの曲で、音が同期しないこと、音がズレることをコンセプトに作曲している。実は、坂本は『async』のひとつ前のスタジオ・アルバム『out of noise』(2009年)に収録されている「Hibari」でも2台のピアノを用いて、音のズレを追求しており、そこで展開されていたひとつの規則に収束されない音楽の在り方を『async』ではさらに深めている。例えばピアノの内部奏法で構成された点描的なサウンドを特徴とする「disintegration」はそれにあたり、各音色の周期は素数によってシステマティックに規定されていたようだ。この楽曲がサラウンドで鳴り響くとき、空間の様々な場所に音が点在し、ステレオ再生とは明らかに異なる音の存在感がそこにはあった。また、「ZURE」では左右で響く音のズレが楽しめるが、こちらは左右それぞれで音が鳴った瞬間に映像にエフェクトが走ることで、その左右のズレを顕著に体感することができ、サウンド・システムだけではなく、映像も音が持つ意味をシャープに表現していた。

ここで『async』の世界観をさらに理解するために、坂本龍一が非同期にアプローチした理由を説明する。ぼくが『async』リリース時に坂本龍一にメール・インタビューしたとき(※OTOTOY掲載)、彼は次のように話している。

「リズムだけでなく、音律でも平均律がとても鬱陶しくてなりません。やはり近代的な音楽のシステムから遠ざかりたいということかな」

「自然が奏でる音、リズムは非同期に満ちています。例えば雨、波、心臓の鼓動などなど。決して規則的な繰り返しではありません。人工的で規則的なリズムには飽きました。音律も人工的な平均律にはほとほと飽きました」

坂本龍一は西洋的近代が持つある種の人工性から距離を取りたがっていた。このことは、自然と人工の対立が原発を通して顕著になった3.11という未曽有の大災害の経験と極めて深く結びついている。実際、「ZURE」では震災で起きた津波をかぶって壊れたピアノが使用されており、坂本はそのピアノについて「人間が産み出したピアノという楽器、その人工的な調律を、自然の側へ、モノへと戻したのだと感じ、その音律は自然の調律だ」(同上)と思ったという。このピアノは展示の映像にも現れ、『async』の象徴ともいえる楽器だ。

坂本龍一(Photo by Neo Sora ©︎2020 KAB Inc.)

大病を患ったことによる心身の衰えと並行して、近代的なものに対する疲労が全面化しており、そこから強まっていった自然への憧憬は、リズムだけではなく音響にも現れている。アルバムの至る所でフィールド・レコーディング音源が顔を覗かせており、それが強く現れているのが「walker」だ。アンビエントな電子音とともに、虫の鳴き声や地面を踏みしめる足音のフィールド・レコーディング音源が使用されているこの楽曲が空間で鳴り響くとき、一番驚かされたのは、人の足音が明確にスクリーンの下部から鳴り響き、まるでほんとうに見えない人間が歩いているかのように思えてきたことだ。

今時、映画館のサウンドシステムが充実しているだけに、サラウンドはそう珍しいものではなく、音の定位のコントロールなんて容易いものだ、という意見もあるかもしれない。しかし、《async – immersion》では坂本龍一がサラウンド向けに作曲したサウンドを、彼と長年ともに仕事をしてきたZAKがエンジニアを担当し、現地でもミックスしており、映画館における音楽体験とは全く異なるものであることは強調しておこう。映像でも自然の描写がふんだんに取り入れられており、森や海岸、そして前述した震災で壊れたピアノが音楽とともに現れる。こうした映像は、個々の楽曲とセットで制作されているのではなく、あくまでランダムに配置されているため、同じ楽曲でも、時間によって異なる映像が流れる仕様になっている。

Photo by Satoshi Nagare

『async』の美しさ、その背後にある苦悩

『async』は、坂本龍一のキャリアを通して深いつながりを持つ「映画」というアート・フォームとも関連がある。坂本龍一にとって、音楽と自然の同居が決定的な意味を持ち始めたのは、彼が晩年に手掛けた傑作サウンドトラック『レヴェナント:蘇えりし者』(2015年)からだった。制作にあたって、監督のアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥから「自然と音の癒合」をリクエストされた坂本は、楽曲における「間」を存分に活かし、映画内で展開される木が擦れ合う音や川の音などと、音楽が同居するように構成した。その影響が本作にも流れ込んでいる。

また、『async』には、自身の作品に自然、特に水の描写を大々的に取り入れることで有名な映画監督アンドレイ・タルコフスキーの架空のサウンドトラックを作ろうという意図もあったようだ。実際、同アルバムの「Life,Life」ではデヴィッド・シルヴィアンが、タルコフスキーの父にあたるアルセニー・タルコフスキーの詩を朗読している。《async – immersion》では、朗読された言葉はその言語のまま、画面に字幕として現れ、映像に刻まれていく。『async』には全部で11カ国語の朗読が含まれており、特に「fullmoon」では、多くの言語が画面に浮かび上がることになる。その中には坂本がかつてサウンドトラックに参加した映画『シェルタリング・スカイ』(1990年)の監督、ベルナルド・ベルトルッチによるイタリア語での朗読も含まれている。

『async』は音の官能性とエクスペリメンタルなコンセプトが溶け合った、恐るべき完成度を誇る音楽だ。しかしそれとは裏腹に、本作は極めて痛ましい作品だと思えてくる瞬間がある。それは前述した西洋的近代への疲れが作品全体に強く滲み出ているからだ。そこにはおそらく、自身がYMO~ソロ活動を通して、いかにも西洋的なシステムの中で形作られたテクノ・ミュージックの象徴であったことへの自己批判も含まれているだろう。そしてそこから距離を取るための選択は、ある種システマティックに「非同期」を発生させること、様々なエレクトロニクスを用いて制作すること、自然の音をフィールド・レコーディングすることに現れている。これらすべてがある種、西洋近代的なふるまいであり、坂本龍一もそのことを自覚しているだろう。そしてこの指摘自体もまた、西洋近代的なありふれたものだ。

そういった彼の苦悩が苦悩としてではなく、音楽の快楽として昇華されていることもまた切なく、音楽の喜びであるとともに残酷さでもある。一時期はどこか輝いて見えていたはずの西洋的価値観が目の前で崩壊していく現代において、坂本龍一の苦悩は現代的なものであり、西洋的繁栄を享受してきた日本という国が抱えてしかるべき苦悩だろう。もちろん、坂本は『async』からそのようなメッセージを読み解くことは好まないに違いない。ただ、『async』の音楽的な達成や《async – immersion》の意義を、単なる喜びとして綴ることは、『async』という作品と向き合った際、決定的に何かを取りこぼしているような気になってしまう。そうした背景を踏まえて『RYUICHI SAKAMOTO + SHIRO TAKATANI AMBIENT KYOTO - TOKYO』に足を運べば、その体験の充実とともに、鈍い痛みが胸を刺すだろう。

Photo by Satoshi Nagare

「RYUICHI SAKAMOTO + SHIRO TAKATANI AMBIENT KYOTO - TOKYO」

2026年8月28日(金)~10月25日(日)

東京・麻布台ヒルズギャラリー

※会期中無休

開館時間:

平日 10:00~19:00

土・日曜・祝日 10:00~20:00

※最終入館は閉館の30分前

観覧料:

平日 大人 前売2,200円/当日2,500円

土日祝 大人 前売2,500円/当日2,800円

※高校生以下無料

※障害者手帳をお持ちの方(介助者1名含む)は無料

※小学生以下は保護者同伴

公式サイト:https://ambientkyoto.com/