興味深いのは、第6話で本当にAI的だったのが、AIそのものだけではなかったことだ。阿部は優秀で、知識があり、間違ったことを言わない。しかし樹が助けを求めたときにも、返ってきたのは「近くに信頼できる大人の人がいれば」という、正しいが一般的な回答だった。
つまり、第6話が描いたのは、「AIに人間の代わりができるのか」という使い古されたテーマだけではない。むしろ逆なのではないだろうか。人間の側が、いつの間にか「正解しか返さないAI」のようになってはいないか。
間違えないこと。余計なことに踏み込まないこと。効率よく問題を処理すること。自分の責任範囲を越えないこと。それは現代社会を生きるうえで、ある意味では極めて合理的な振る舞いである。だが、人間が困っているとき、本当に必要なのはいつも合理性なのだろうか。鬼塚は、その対極にいる。
無駄が多い。効率が悪い。余計なことに首を突っ込む。間違える。そして、とにかく走る。
合理性という尺度だけで測れば、優秀な教師とは到底言えない。しかし、人間は合理性だけでは救われない。第6話は、そんな当たり前のことを、AIという極端に分かりやすい「記号」を使って見せた。
そして、それはこれまでの2026年版『GTO』が続けてきた作法とも重なる。令和の問題を、人物や設定に大胆に背負わせる。それを鬼塚という、さらに巨大な“人間臭さの記号”と衝突させる。リアリティを精密に再現するのではなく、問題をデフォルメすることで、その本質だけを観客に見せる。
だから今回も、「AIってそんなに単純じゃないだろ」と感じる部分はある。しかし、その単純化によって浮かび上がったものも確かにあった。知識は、人を救うために必要だ。だが、知識だけでは、人は救えない。誰かが不安に震えているときに必要なのは、「正しい答え」を返してくれる存在ではなく、その不安に巻き込まれる覚悟を持った人間なのかもしれない。
樹は、自分より知識のない鬼塚を教師失格だと考えた。しかし、人生で初めて「正解だけでは解決できない問題」に遭遇したとき、最後に頼ったのは鬼塚だった。AIがあらゆる「答え」を教えてくれる時代だからこそ、教師に残される仕事は、むしろ答えのない場所にある。──第6話は、そんな逆説を描いた回だったのではないだろうか。












