
この記事は 「ただ、私たちはレースがしたかっただけです」|スタンツァーニとダラーラが語る、ミウラ誕生のとき【前編】の続きです。
【画像】ファクトリーでのランボルギーニ・ミウラ生産の様子(写真5点)
市販化を目指す
開発チームにとって幸運だったのは、ガンディーニが技術的なセンスを持つデザイナーだったことにある。そしてガンディーニ、ダラーラ、スタンツァーニのいずれもが、3人によるパートナーシップをかつてないほどポジティブなものだと受けとめていた。スタンツァーニの回想は続いた。
「チームに大スターはいませんでした。私たちの誰もが議論を歓迎していて、解決策を前向きに見いだそうとしていました。私たちはみんな若く、才能に溢れていましたが、経験は不足していました。そこで、誰もが知識を持ち寄り、どんな考え方であっても議論の対象としました。完璧なチームワークでした。ガンディーニと私は、車のルックスをよくするため、ホイールベースの延長を望んでいました。この案はすぐに採用されました。フロントセクションをより低くするためにラジエターの位置を見直したかと思えば、ガンディーニはエンジンルームからの排熱を改善するためにリアルーバーをつけようと提案してくれました」
「いくつかのミスを犯したことも忘れられません。私たちはスペアタイヤを1本積むことで合意していましたが、その搭載方法は極めて効率的でなければいけません。その結果、ロードホールディングやブレーキ性能を優先して大きなリアタイヤを装着するのではなく、前後のタイヤサイズを揃えることにしました。タイヤがパンクしたとき、自分が必要としていないサイズしか手元になかったとしたら、どうですか?ところが、現代ではスペアタイヤを積まない車が主流になっています。なんだかダマされたような気分ですよ」
「私たちは、たとえばウォーターポンプなどのように、まったく新しいパーツを開発することにも苦心しました。ギアボックスの一体化に伴ってエンジンを逆回転させたので、これに対応させる必要があったのです。また、より効率的で現実的であるという理由から、それらを社内で行うことにしました。設計、評価、そして生産を自分たちの手で行ったのです。エンジンとギアボックスに同じ潤滑油を用いることにメリットがあると考えられたことは一度もありませんでした」
まるでレーシングカーのような外観を持つロードカーの、最後の仕上げを行ったのは、ニュージーランドからやってきたテストドライバー、ボブ・ウォレスだった。私はウォレスとは面識がなかったが、彼の愛弟子で、後に後継者となるヴァレンティーノ・バルボーニとは長い時間を一緒に過ごしたことがある。そのヴァレンティーノは、私にこんな話を聞かせてくれた。
「ボブがイタリアにやってきたのはレーシングカーの仕事に関わるためで、ボブはそれに人生を捧げていた。ミウラ・イオタを作ったのもレースに出るのが目的で、そのためにミウラを開発してサーキット用に仕立て直したのです。そんなボブもレース嫌いのフェルッチオに苦しめられた被害者でしたが、結果として、車両の限界までテストするランボルギーニの開発メソッドを確立しました。ボブ自身は気づいていなかったようですが、彼はノーマン・デュイスがジャガーのためにしたのと同じことを成し遂げたのです」
何台、売れるのか
ミウラの開発が進められていたとき、フェルッチオはどうしていたのかをダラーラが証言してくれた。「フェルッチオは本物のビジネスマンでしたから、日々の業務の邪魔になるようなことは嫌がりました。もちろん、重要なことや戦略的なことを決める場には必ず立ち会いましたが、彼が経営する会社はほかにもあったので、サンタガタ・ボロネーゼのファクトリーに1日20時間もいたわけではありません。フェルッチオは部下のことを信用していたし、担当者は自ら選んでいて、一度決めたらあとは担当者に任せていました。ときには不安を口にしたり、怒ったりすることもありましたが、日々の業務は完全に私たちに任されていたのです。彼はミウラにはランボルギーニを有名にする力があると信じていたので、このコンセプトのことは最初から気に入っていました」
微笑ましいエピソードもある。それは「ミウラはいったい何台売れるか」という”市場調査”に関するものだった。スタンツアーニが回想する。
「ヌッチオ・ベルトーネ、そしてフェルッチォ・ランボルギーニと一緒にジュネーヴ・モーターショーのブースにいたときのことです。いきなり『何台売れると思う?』という話題が持ち上がりました。最初は、お互いに数字を明言するのを遠慮したし、誰かの考え方に影響を受けたり、反対に影響を与えりするのもためらった。ただし、私はある種の調停役のような立場だったので、2枚紙を用意して、5年間で生産する台数をふたりに予想してもらったんです。その結果を見て驚きました。ふたりともぴったり同じ”50”と書いていたんです」
ふたりの予想はシャシーを発注する数にも影響を与えた。
「この予想を受けて、ミウラのシャシーを製作するマルケージへの最初の発注は15台分となりました」とスタンツァーニは、私にそう教えてくれた。そして、特に根拠がなかったにもかかわらず、「その後の発注分も常に15台分か、その整数倍とされていました」という。
歴史は、ふたりとも間違っていたことを証明する。7年間に生産されたミウラは実に763台に及んだのだからだ。
成功が確実視され、完成した当初から特別なオーラを放っていたミウラだったが、ジャンパオロ・ダラーラは「改良の余地が残されていました」と主張して譲らない。
「たとえばシャシーは、剛性を高めるために生産中に何度も鋼板の厚みを増していきました。フロントより大きなリアタイヤの装着はミウラSVになってから実現しました。どのサイズのスペアタイヤを積むべきかという論争は、リアタイヤがボンネット下に収まらなかったので、すぐに解決しました。SVではエアコンの装着が増えたことも大きな進歩でした。そして最後にはエンジンとギアボックスの潤滑も分離できました」
ミウラが完成した60年前、ダラーラとスタンツァーニはどちらもフィアット500を日常の足として使っていたという。日々の経験をもとに世界最速のスーパースポーツカーを開発できたのは、彼らが類い希な才能、スキル、見識、そして若者ならではの大胆さを備えていたからだろう。どんなに厳密なビジネスプランを立てるより、ときには純粋に夢見ることが役立つときもある。ミウラの成功は、我々にそんな教訓を残してくれたようだ。
編集翻訳:大谷達也 Transcreation:Tatsuya OTANI
Words:Massimo Delbo Photography:Lamborghini