「ただ、私たちはレースがしたかっただけです」|スタンツァーニとダラーラが語る、ミウラ誕生のとき【前編】

晩年のパオロ・スタンツァーニとジャンパオロ・ダラーラが、ふたりの名声を決定づけたスーパースポーツカーについて語った。マッシモ・デルボが、その様子を振り返る。

【画像】1965年トリノ・ショーで話題をさらった、ボディが架装されていないミウラのローリングシャシー(写真4点)

ランボルギーニ・ミウラが誕生して60年になるなんて、にわかには信じがたい。この革新的と呼ぶに相応しいモデルが発表されたのは1966年のジュネーヴ・モーターショー。そのとき、ミウラの開発に関わった主要メンバーはいずれも20代だった。彼らは、未来を照らし出すまったく新しいビジョンとしてミウラを作り上げたという。

ミニとGT40

「別に”伝説”を作ろうと意気込んでいたわけではありません。ただ、私たちはレースがしたかっただけです」と、インジェネーレ(イタリア語で技術者の意味)、ジャンパオロ・ダラーラはそう振り返る。そのとき29歳のダラーラは、ランボルギーニでテクニカルディレクターを務めていた。「”ミウラ”と名付けられることになるニューモデルは、フェルッチオにレース参戦を促すために作りました。そしてこの企てには、私と同じ志を持つ”共犯者”がいました。インジェネーレ・パオロ・スタンツァーニとテストドライバーのボブ・ウォレスです」

このとき、スタンツァーニはダラーラと同い年の29歳、ウォレスはまだ27歳だった。現実の「ミウラ創世記」は、一般に考えられているよりもずっとシンプルなものだった。晩年のスタンツァーニに会ったとき、彼はこんな話を聞かせてくれた。

「当時、世界でもっとも優れていた2台を、私たちは見習うことにしました。1台は BMCミニ、もう 1台はフォードGT40です。2台のコンセプトはまるで異なっていますが、それぞれの分野で至高の1台と位置付けられていました。私たちはフェルッチオが所有していたミニを借り出すと、それを徹底的に研究し、横置き式エンジンとギアボックスのレイアウトが省スペースに貢献していることを理解しました。そしてGT40からはミドシップ・レイアウト、さらには全般的なメカニカル・パッケージや全高をできるだけおさえる手法を学びました」

ローリングシャシーのポテンシャル

1965年トリノ・ショーで、ボディが架装されていない”裸”のローリングシャシーが人々の関心を独り占めにしたことは皆さんもご存じのとおり。V12エンジンと積む公道向けのスポーツカーで、レーシングカーに近い技術をこれほど多く取り入れた例はかつてなかった。それは、信じられないほどのポテンシャルを秘めていたといっていい。そして、あるとあらゆるコーチビルダーがランボルギーニのブースを訪れたという。スタンツァーニは回想する。

「本当に驚きました。すでに大きな成功を収めた4リッター・クワッドカムV12エンジンを積んでいたとはいえ、ローリングシャシーが大反響を呼び起こしたのですから。そして、私たちが目にした最初のボディ・デザインは、カロッツェリア・トゥリングのビアンキ・アンデローニ氏が提案してくださったものでした。彼は、自らが製作したスケールモデルを毛布に隠して持参してきたのです。ファクトリーに持ち込まれたシャシーをいち早くご覧になったのはアンデローニ氏で、これはなんらかのメリットとなったはずです。ただし、彼の提案はあまりにトラディショナルなもので、しかも会社は財政難に喘いでいました。これがランボルギーニ400GTの生産に影響を与えていたほどです。そして最終日にはヌッチオ・ベルトーネがブースにやってきました。ベルトーネこそが理想的なパートナーとなりうることを、私たちは薄々気づいていました。なぜなら、ピニンファリーナはフェラーリとあまりに近い関係にあったからです。このときベルトーネは『何か特別なものを、近々お見せします』と約束してくれました」

ベルトーネのチーフデザイナーは、このときジョルジェット・ジウジアーロからマルチェロ・ガンディーニに代わったばかりだった。ガンディーニはまだ27歳で、文字どおり正しいタイミングで正しい場所にいたことになる。しかも、彼が描いた作品は最初から文句のつけようがなかった。スタンツァーニがその時の光景を回想する。

「ちょうどクリスマス・シーズンでした。サンタガタ・ボロネーゼのファクトリーはお祝いのために閉まっていて、おまけに雪まで降っていました。ベルトーネとガンディーニがスケッチを見せてくれました。もう、あまりに完璧で、微調整の必要さえないと誰もが確信しました。このときフェルッチオは、こう語りました。『気に入った。このモデルとともに、我々は伝説的な存在になるだろう』と」

「ええ、フェルッチオは間違っていませんでした。ミウラの成功により、ランボルギーニの名は世界中で広く知られるようになり、その歴史についてとやかく言う者はいなくなりました。私たちが直面した問題は、日程だけです。なにしろ、車を完成させるまでに90日間しか与えられなかったのですから…」

・・・後編へ続く

編集翻訳:大谷達也 Transcreation:Tatsuya OTANI

Words:Massimo Delbo Photography:Lamborghini