連載:アナログ時代のクルマたち|Vol. 80 ジャガーXK120

近年ジャガーというブランドは、電気自動車メーカーへと転身を図り、新たなモデルをティザーしてブランドの再生を図ろうとしている。

【画像】トップスピード120マイルが社名の由来。ジャガーの戦後初のスポーツカー、XK120(写真11点)

だが、ジャガーといえばやはりスポーツカーブランドとしてのイメージがとても強い。最初の本格的スポーツカーは第2次世界大戦前の1935年に誕生し、戦後に最初に登場したのもやはりスポーツカーであった。もっとも戦前に出したモデルはジャガーというブランド名(社名)ではなかった。ジャガーカーズとして新たな出発をしたのは実に戦後1945年のことである。

当時のジャガーには、才能あるエンジニアが溢れていたといっても過言ではない。そして、商才があるビジネスマンにしてデザイナーでもあった、ウィリアム・ライオンズがこの会社の指揮を執っていた。エンジニアの一人はビル・ヘインズ。ジャガーのチーフエンジニア兼テクニカルディレクターで、ジャガーのル・マン参戦について、ウィリアム・ライオンズを口説き落とした人物とされる。そしてXKエンジンの開発責任者でもあった、ウォーリー・ハッサンはベントレーから移籍して、後にコベントリークライマックスに行くイギリスきってのエンジニア。3人目のクロード・ベアリーは1948年にジャガーカーズのチーフ・エンジンデザイナーとなり、XKエンジン開発に携わり、後のV12エンジンも手がけた人物である。このほかにも、XKのヘッドデザインに貢献したハリー・ウェスレーク、後にレースエンジンとして磨きをかけたハリー・マンディ等々、外部の協力者もあって、XKと呼ばれたジャガー戦後初のエンジン開発には、イギリス自動車界のフルキャストが参加していたといっても過言ではない。

そんなXKエンジンの開発は当初4気筒から始まっている。そして120が意味するのはトップスピード、即ち120マイルの最高速を誇る意味が持たされていた。1948年のアールズコートにおけるロンドンショーに姿を現したXK120は、当初いわゆるコンセプトカーとしてデビューしたものであった。この時ショーに姿を現したのはシャシーナンバー660001、ボディナンバーF1001の車両である。後にHKV455の登録ナンバーを得たが、メタリックブロンズの車体をバーチグレーに塗り替え、ダンロップのブレーキシステムのテストに使われて、その生涯を終える。当時資材調達に問題があったジャガーは、この車にアッシュ材の木骨フレームを使っていた。

あくまでも、エンジンを披露するための、コンセプトカーであったはずのXK120が、大反響を得たことで、ライオンズはこの車の生産化を決定し、翌1949年には量産第1号車がジャガーのホールブルックレーン工場からラインオフした。この量産モデルも実は木骨フレームを持っていて、アルミボディとの組み合わせである。木骨フレームが採用されたのは最初の240台ほど(諸説ある)で、その後はスチールボディとスチールフレームに変更された。理由はハンドメイドでは需要をカバーできなくなったことや、鋼材の入手が容易になったことなどがその背景にある。ただし、木骨フレーム時代にはその軽量な車体を利して、120マイルのトップスピードを誇ったが、車重が50kg以上重くなったスチール製で果たしてそのトップスピードが維持できたかどうかは疑問のようである。

話を少し巻き戻すが、名前の由来となった120マイルの最高速度が果たして本当に可能だったか、という話であるが、1949年5月30日、ジャガーはこの真新しいスポーツカーをベルギーの高速道路に持ち込んだ。ベルギー第3の都市、ヘントにほど近い、ヤベーケの高速区間において、最終的には132.6mphの最高速度を記録した。この時のドライバーはジャガーのテストドライバーだった、ロン・サットン。体調不良だったというウォーリー・ハッサンの代役を務めたドライバーである。もっともこの時のXK120は全くのノーマルではなく、車体下面を全面的に覆うアルミニウム製アンダートレイが装着され、ギア比も高速寄りの設定に変更されていた。そして最初はフロントガラス、幌、サイドスクリーンを装着した状態で走り、この時は126.5mph。その後フロントガラスをエアロスクリーンに交換したほか、コックピットの助手席側を覆うリジッド・トノカバーを装備して前述の 132.6mphを記録した。車両のシャシーナンバーは670002。その後もレースで活躍したモデルである。当初は左ハンドル仕様で生産されたモデルであるが、後に右ハンドル仕様の変更されたものである。残念ながら、その後は研究開発用で解体された。

一口にXK120といってもそのボディは3種類ある。一番最初に作られたのはOTS(オープントゥーシーター)と呼ばれたモデルで、これはサイドウィンドーのないタイプ。その後1951年にFHC(フィクスドヘッドクーペ)が誕生し、最後にDHC(ドロップヘッドクーペ)が1953年に誕生した。DHCはいわゆるコンバーチブルタイプで立派なホロとサイドウィンドーを有する。

ビル・ヘインズがル・マン参戦を、ウィリアム・ライオンズに求めた話を冒頭に書いたが、1950年のル・マン24時間には、3台のXK120が参戦するも、12位、15位、そして1台はリタイアという結果に終わり、レースで勝利するためにはさらなる開発が必要と判断された。こうして完成するのが、XK120C(通称ジャガーCタイプ)である。翌1951年のル・マンには3台のワークスXK120Cが出場。このうち1台が見事に優勝を遂げ、50年代のジャガー黄金時代が幕を開けるのである。52年こそ不調に終わるものの、Cタイプは53年は見事に1位2位、4位に入る活躍を見せた。

ロッソビアンコ博物館にはOTSとFHCの2台が収蔵されていた。年式は1954年とされており、いずれも最終型のモデルである。

文:中村孝仁 写真:T. Etoh