キャロル・シェルビーとの日々|祖父の思い出を孫のアーロンが語る

キャロル・シェルビーを祖父にもって育つとは、どのようなものだったのか。厳しい愛情に満ちた存在だったのか、それとも意外にも優しい祖父だったのか。アーロン・シェルビーが、そのすべてを振り返る。

【画像】祖父キャロル・シェルビーと過ごした日々の思い出の写真(写真6点)

祖父キャロルとの日々

「私はキャロル・シェルビーの孫のひとり、アーロン・シェルビーです」彼とは以前からの知り合いなので、このように名乗るのは録音のために過ぎない。それでも、その言葉には特別な響きがある。何しろ、祖父がキャロル・シェルビーなのだ。現在アーロンはシェルビー・アメリカンに深く関わっており、この取材で会った時も、シェルビー・マスタングGT350誕生60周年のプロモーションに携わっていた。

「キャロルには6人の孫がいます。父はパトリックで、三人兄弟の末っ子でした。家族は小さく、とても仲が良く、キャロルと過ごす時間もたくさんありました」

「もともと車は好きでしたが、本格的にレースや車にのめり込んだのは父の影響です。私が8歳の時、父がフォーミュラ・フォードでレースを始め、その後フォーミュラ・アトランティックへ進みました。私たちは南カリフォルニアに住んでいたので、ウィロウスプリングスやリバーサイド・レースウェイなど素晴らしいサーキットに通っていました」

では、キャロル本人についてはどうだったのだろう。アーロンが祖父の偉大さを意識したのはいつだったのか。「私たちにとってはただの”おじいちゃん”でした。家族として接していると、祖父の昔の話を聞き出すのは本当に大変だったんです。最近の旅行の話や、東テキサスで育てている牛の話はしても、車の話だけは自分からしませんでした。こちらがよほどしつこく聞かない限りね」

あのキャロル・シェルビーが、自らの功績を語らなかったというのか。アーロンが生まれた1970年代初頭までに、シェルビーは1959年にアストンマーティンでル・マン総合優勝を果たし、1962年にはシェルビー・アメリカンを設立している。同年にはACエースを無敵のコブラへと進化させ、1964年には427コブラとデイトナ・クーペを送り出した。1965年にはフォードと組んで、シェルビーGT350を開発し、さらにフォードGT計画を率いて1966年ル・マン24時間耐久レースで歴史的なフォード1-2-3フィニッシュを実現した。それどころか、1967年にはGT500を開発し、自伝「The Carroll Shelby Story」まで出版していた。それでも、幼いアーロンはその大半を知らずに育った。

「本当に普通の祖父でした」とアーロンは繰り返す。「私や兄弟のためにキャンディを袋一杯抱えて持ってきてくれましたし、東テキサスの農場で一緒にオートバイに乗ったり、釣りをしたりしました。近所に住んでいたもう一人の祖父ほど頻繁には会えませんでしたが、やっていたことは同じです」

車の世界から見れば、この時代はシェルビーの「空白期」だった。彼はフォードを離れ、増え続けるコブラ・レプリカへの対応に追われていた。常に忙しく、根っからの実業家だった。アーロンが指摘するように、「キャロル・シェルビー・テキサス・チリミックス」を販売し、それをクラフトへ売却もしている。牧場営業にも力を注ぎ、家族との失われた時間を取り戻そうとしていた。

「父やその兄弟が幼かった頃に限って言えば、キャロルは良い父親とは言えませんでした」とアーロンは語る。「レースで各地を飛び回っていて、ほとんど家にいなかったからです。1960年にはカリフォルニアへ移り住みましたが、子供たちはダラスに残されたままでした」

「それでも状況が落ち着いてからは、とても親しい関係になりました。父と叔父は南カリフォルニア大学に進学し、しばらくキャロルと暮らしていました。その後、父は本格的にレースをやりたくなり、リバーサイドやウィロウスプリングスのシェルビー・スクール・オブ・ハイパフォーマンス・ドライビングへ通いました。するとキャロルは『レースをやりたいなら、自分で資金を用意しろ。頑張れ』と言ったんです」

「そこで父はその通りにしました。当時すでに製造業を営んでいて、キャロルも共同経営者でした。社名はキャロル・シェルビー・ホイールズで、アルミホイールを製造していました。そして十分な資金ができると、フォーミュラ・フォードのマシンを購入したんです」

キャロル・シェルビー再始動

1980年代に入ると、キャロルの人生は再び大きく動き始める。フォード時代に数々の成功を共に築いた盟友リー・アイアコッカに招かれ、低迷していたダッジ・ブランドの再建に乗りだしたのだ。そしてこの頃になってようやく、アーロンは世間が祖父キャロルに寄せる特別な敬意を肌で感じるようになる。

「私が12歳の頃、彼は南カリフォルニアでダッジ車の開発をしていました。それである日、工場へ連れて行ってくれたんです。すると『今日は運転を教えてやる』と言われました。あれは本当に最高でした。小さなダッジ・オムニGLHを用意して、スキッドパッドへ出ると、クラッチやアクセルの操作を一通り教えてくれました。そして『さあ、運転席に座れ。今度はお前の番だ』と言うんです」

「もともと辛抱強い人という印象はありませんでした。でも、その日は本当に根気よく付き合ってくれました。一度も声を荒げることがなかったんです。そういう小さな出来事の積み重ねで、『これは普通の祖父では体験できないことだな』と思うようになりました」

その思いは、ダッジ時代に雑誌が再びキャロルを取り上げ始め、さらに1990年代初頭、無許可のコブラ・レプリカが増え続けていることに憤慨した彼が、自らコブラの製造を再開した頃には一層強くなった。

「『なるほど、祖父がAutoweekやRoad & Trackの表紙を飾る人なんてそうはいないな』と思いました」とアーロンは笑う。「そして本当に特別だったのは、1991年のインディ500で彼がダッジ・バイパーのペースカーを運転したこと(編集部註:メイン写真参照)です。その週末は現地へ飛んで一緒に過ごしました。本当に素晴らしい体験でした」

これは心臓移植からわずか数カ月後のことだった。彼は生涯にわたり、心臓疾患を抱え、それが1960年以降のレース活動断念につながったことはよく知られている。「文字通り誰も彼に運転してほしくありませんでした。クライスラーは許可しましたが、安全担当者たちは『ダメだ、心臓移植手術を受けたばかりじゃないか』と言っていました。でも、キャロルを知っているでしょう。彼の辞書に”No”という言葉はありません」

「私は本当に幸運でした。インディの土曜日、彼はメディア向けにハイスピード走行をしていました。誰かが助手席に乗り込むのに手間取っていたので、キャロルが『お前が乗れ』と言ったんです。晴れてはいましたが、前夜は雨でした。バックストレートでは160、いや165mphくらいまでは出ていたと思います。それなのにまるで何事もないかのようでした。彼にはこちらの様子をうかがう余裕さえありました。あれはまさに天性の資質だったと思います」

私がさらに知りたくなったのは、周囲の人々がこうした状況をどう受け止めていたのか、そして当時キャロルにどう接していたのかということだった。「友人たちの多くはそこまで特別なことだとは思っていませんでした。彼に会ったことがある友人もたくさんいましたが、それは農場でのことでした。キャロルが誰なのかは知っていても、彼らは車好きではなかったし、ダッジ時代の仕事は1960年代のシェルビー・モデルほど刺激的ではなかったんです。彼は皆によく接していましたが、友人たちは『まあ、君のおじいちゃんだね』という反応でした」

フォード復帰と新たな伝説

「すべてが一変したのは、2000年代初頭に彼が再びフォードと組んでからです。私はよく言うのですが、ビジネス面で彼の人生最大の成功はフォードへ復帰したことだったと思います。それが彼自身を再び活気づけ、ブランド全体にも新たな命を吹き込みました。今では19歳と21歳になる息子たちもシェルビーを知り尽くしていますし、その友人たちもシェルビーを知っています。現代のGT350やスーパースネーク、シェルビー・トラックが存在しているからです」

もちろん、キャロル・シェルビーが再び世界的な知名度を得た理由のひとつが、2019年公開の映画『フォードvsフェラーリ』(英国および欧州では『Le Mans 66』)だ。「マット・デイモンがキャロル役に決まった時は正直ピンと来ませんでした。でも、彼は素晴らしい仕事をしてくれました。完全に役になり切っていましたし、キャロルらしさを見事に表現していました」

「大筋の物語だけでなく、描写もかなり正確でした。スーツを着てデトロイトへ行き、フォード上層部と交渉し、その後カリフォルニアのチームへ戻って『フォードが何を言おうと気にするな。自分たちの仕事を続けろ』と言うんです。まさにそういう人でした。常に仲間の後ろ盾となっていましたし、それこそがチームから愛された理由だったと思います」

「フェラーリのストップウォッチを本当に盗んだのかとか、ホイールナットを本当に落としたのかとか、よく聞かれますが、実際にはやっていないと思います。でも、やりかねない人物だったのも確かでした。そして、その点を分かってもらうことが大事なんだと思っています」

キャロルの遺したもの

興味深いのは、あれほど一途なキャロルが、ブランドが再評価された2000年代でさえ家族にはシェルビーに関わるよう勧めなかったことだ。転機が訪れたのは、2012年に彼が89歳で亡くなった後だった。シェルビー・アメリカン側から家族へ声がかかったのである。

そこで白羽の矢が立ったのがアーロンだった。彼は自動車業界には進まず、大学では金融を専攻し、その後は銀行業界へ進んだ。現在も本業はそのままだ。それでもシェルビーの名への情熱は失わなかった。そして、2012年のキャロル逝去後、シェルビー・アメリカンの経営陣からアーロンに連絡が入る。フォードによる新型シェルビーGT350の発表の場に、シェルビー家を代表して出席する気はないだろうか、という打診だった。

「その役目も無事にこなし、余計な発言もしなかったので、翌週のロサンゼルス・オートショーにも来てくれないかと頼まれました」彼はそれを引き受け、2016年にはブランド・アンバサダーとしてキャロル・シェルビー・インターナショナルの取締役に就任した。以降、グッドウッド・リバイバルやル・マン・クラシック、モントレー・カー・ウイークなど世界各地のイベントに参加している。

「私は両方の良いところを享受できていると思っています。たとえば、ザ・クエイルのようなイベントでは顔を知られていますが、普段の生活では99%の人が私のことを知りません。キャロルは本当に人との付き合いを大切にしていましたし、驚くほど記憶力が良かったんです。『ああ、10年前にライムロックで会ったね。その時、君は子供を連れていた。あの子は元気かい?』といった具合でした。私はまだそこまでではありませんが、キャロルについてさまざまな話を聞き、その人たちと直接語り合う。それが何より楽しいんです」

シェルビー家はまた、祖父にまつわる重要な品々や車両の収集にも取り組んでいる。それらはダラスにあるファミリーオフィス内の約7500平方フィートのプライベート・コレクションとして展示されている。そこには一家が所有する35台のシェルビー車のうち18~20台が収められているほか、無数の関連資料や記念品が並ぶ。

「彼はいろいろなものを持っていましたが、それ以上に濃密な人生を送りました」とアーロンは控えめに語る。「何度も離婚していますし、物の管理もあまり得意ではありませんでした。だから多くのものが散逸してしまいました。その中でもっとも価値があると思うのは、1959年のル・マン優勝時に贈られたパテック・フィリップの腕時計です。父は当時12歳くらいで現地にいました。そして大学卒業後、キャロルはその時計を父へと譲ったんです。長年貸金庫に眠っていましたが、今では展示しています」

「それからAJ・ベイムの本にも出てくる話ですが、ヘンリー・フォード2世はル・マンで勝てないことにかなり苛立っていました。そこで1966年、彼はチーム全員に『You better win(必ず勝て)』と書かれたカードを配り、自ら署名しました。キャロルが亡くなった後、私は彼のオフィスにあった雑多な品の箱を整理していました。すると、『Henry Ford Ⅱ card』とだけ書かれた封筒が出てきたんです。中を開けると、まさにそのカードでした。『You better win, HF Ⅱ』と書かれていました」

「兄弟たちと一緒にオークションをチェックしたり、スワップミートで人と話したりしていると、今でも1950年代のキャロルのレース時代のトロフィーが見つかることがあります。インターネットも素晴らしいですね。歴史的な写真を掘り起こせます。たとえば、1950年代にキャロルがレースをしている写真で、それまで存在すら知らなかったものを発見できたりするんです」

「彼はきっと私のしていることを誇りに思ってくれるでしょうし、現在の会社の活動も気に入ると思います。彼は常に次の車、次の革新を追い求めていました。根っからの実業家だったんです。もし今も生きていたなら、フォードとの駆け引きも私よりずっとうまくやったでしょう。欲しいものが手に入らなければ、誰に電話をかければ話が動くかを知っている人でしたから」

「私たちはこれからも新しい製品を開発し、販売し続けます。それが私たちの最も得意とすることですし、次世代のシェルビー愛好家を引き寄せる原動力でもあります。しかし同時に、レプリカカーを通じて歴史や伝統を今に伝えていくことも大切にしています。キャロルは毎年多くのレプリカが売れていることに驚いていました。なぜなら、それらは当時ですら50年前の技術だったからです」

「今日でも人々がシェルビーに抱いている情熱が私は大好きです。そして、世界中を回り、このブランドを代表できることは特別な喜びです。私は祖父を愛しています。そして、彼が成し遂げたすべてを愛しています」

翻訳:西原和希 Translation: Kazuki NISHIHARA

Words: David Lillywhite Portrait: Evan Klein