フランスで36店舗を展開するベーカリーを手がけるパン職人・石川芳美さん。現在は女性起業家・クリエーターとしても活躍する彼女ですが、そのキャリアは決して順風満帆ではありませんでした。

かつて広島でパン教室を立ち上げ、生徒300人・スタッフ20人規模へと拡大。事業は順調に見えたものの、「どうしてそんなに働くの?」「家にいられないの?」という周囲の声や、増え続ける仕事に追い詰められ、やがてうつ病を発症します。

すべてを失いかけたそのとき、人生を大きく変える一言と出会い、35歳でフランスへ――。本記事では、書籍『フランス流自分に素直に生きる方法』(宝島社)より、“やりたいことをすべてやる”選択の先にあった現実と、その後の転機を抜粋してご紹介します。

夢中で走り続けた日本での事業女性が働きにくい時代の中で壊れていく心

  • パンが好きで、パンを作る現場が好き。パンを作ることは私の天命なのだと思う。

    パンが好きで、パンを作る現場が好き。パンを作ることは私の天命なのだと思う。

最初の夫は、私がヤマハで教えていたときの生徒の一人でした。彼の実家は漬物屋を営んでいましたが、エンジニアのお義父さまが起業された会社で、彼は将来2代目になる予定の人でした。結婚してその家業に関わるようになったことで、初めて「発酵」を学ばなければと思うようになりました。

漬物は乳酸発酵のため、本格的に勉強しようとするには、東京農大のような専門機関で学ぶ必要があります。しかし、当時の私は子どももいましたし、広島に住んでいたため、東京で学生生活を送ることは現実的ではありませんでした。そんなとき、偶然目にしたのが小さな製パン学校の広告でした。パン教室を少し大きくしたような学校で、プロ養成というよりは、アマチュア向けのスクールでしたが、広告を見た瞬間、「パンって発酵しているよね」と思ったのです。今思えばずいぶん単純な動機でしたが、当時はとにかく「発酵を学びたい」という思いだけで、その学校に入りました。結果的に、ここからパンの世界へと深くのめり込んでいくことになります。3年ほど通いましたが、すべてのコースを受講し終わったのが、28歳のころ。その年ごろになると、自分の中で大人としての軸ができ、だんだんと「自分は何をやりたいのか」が少しずつ見えてきました。私が「会社をやりたい」と思うようになっていたのもちょうどそのころ。まだ言葉にできない感覚でしたが、何か自分の手で形にしたいという気持ちが強くなっていました。パンの学校を卒業した後、私は教室を始めました。29歳のときに家を建てたのですが、リビングが広かったので、「ここで教室をやろう」と思ったのです。自分に子どもがいたので、子どもを連れてきて遊ばせることができるようにし、みんなでパンを作って、最後に一緒に食べるというコンセプトで教室を開きました。当時はまだインターネットもSNSもなく、宣伝もほとんどしていませんでしたが、口コミでどんどん生徒が増えていきました。最初は月に数回のレッスンだったのが、気づけば毎日レッスンをする状態になり、最終的には生徒が300人ほどにまで増加。20人ほどのスタッフを抱える規模になっていました。

ついには自宅では収まりきらなくなり、2校目を作ることに。講師を育てて雇用し、私を含めて3人体制で運営するようになりました。そして2校目を作るタイミングで、小さなパン屋もスタートさせたのです。今振り返っても、かなりの勢いで仕事を広げていたと思います。

当時はまだ女性が仕事を持つことが当たり前ではなく、とくに地方では、子育てをしながら働く女性は少なかった時代です。周りの同世代の女性たちは、子育てに専念しながらどこか閉塞感を抱えている人も多かったように思います。そんな中で、私はパン教室とは別に「サーティーズパーティ」という名の、30代の女性が自分を磨くためのサークルも立ち上げました。月に一度、東京から講師を呼び、コーヒーの淹れ方やカラー診断、フラワーアレンジメントなどの講座を開催。月刊誌も手作りで発行し、スポンサーもつくようになり、ラジオに取り上げられることもありました。漬物屋の嫁としてだけでなく、3人の子どもの母としての役割をこなしながら、さらには教室や自分の会社を経営することは、とても楽しく充実した日々でした。仕事も順調で収入もあり、事業もうまくいっていましたが、若かった私は、「これはやる」「これはやらない」という選択がうまくできず、全部をやろうとしてしまったのです。当時、女性がバリバリと働くことへの周囲の理解も十分ではなく、「どうしてそんなことをするの?」「家にいられないの?」と言われることが多くなり、自分の心がどんどん追い詰められていきました。その結果、私の精神は次第にバランスを崩してしまい、うつ病を発症してしまったのです。当時の私はまだ若く、体力もあり、やりたいことも明確になっていたので、それに向かってどんどんと突き進んでいましたが、周囲の理解がなかったり、やらなければいけないタスクの多さや大きさに精神が追いつかなくなったりしてしまったのです。

今思えば、せめて周りの誰かが理解してくれて、後押ししてくれていたら少しは変わっていたかもしれません。しかし、当時は女性が活躍することをよしとは思わない時代だったので、なかなか理解してもらうことはできなかったのだと思います。

すべてを失いかけたときに言われた一言が私の人生をフランスへと導いた

  • 30歳のころ、自分の店で地元紙の取材を受けたときの写真。

    30歳のころ、自分の店で地元紙の取材を受けたときの写真。

今は「多様性」という言葉が当たり前に使われる時代になりましたが、30年前はまったく違いました。女性が家庭を持ちながら事業を立ち上げること自体が珍しく、まして地方では理解されにくいものでした。私がパン教室や会社の運営で忙しくなり始めたころ、それまで普通につき合っていたママ友たちが、気がつけばほとんどいなくなっていました。何か直接言われたわけではありませんが、後ろ指をさされているように感じることも多く、「時代が早すぎたのかもしれない」と思うこともありました。仕事自体は順調でも、そんな周囲の環境とタスクの多さに精神的に追い詰められ、そして最終的にはうつ状態が進行。薬で眠るような時期もありました。そのころの記憶は断片的になっていて、今でもあまり思い出せません。

そのころに最初の夫と離婚。さらに子どもを引き取ることもできませんでした。当時の日本では、離婚後に両親が共同で子育てをするという考え方はほとんどなく、どちらかが親権を持って終わりという形が一般的でした。私の場合は子どもに会うことはできましたが、それでも精神的には本当に苦しい時期でもありました。今でこそ、「うつ」という言葉は広く知られ、カウンセリングや精神科も身近になりましたが、当時はまだ理解が少ない時代。離婚しただけでも周囲の目は厳しいのに、さらに精神的な不調があるとなると、「人生が終わった」と言われかねない雰囲気があったのです。そのころの私は、本当にひっそりと生きていたように思います。

それでも、不思議なことに、パンを作っている時間だけは気持ちが安定していたのです。教室も店も閉めていましたが、残っていた店舗で注文を受けた食パンを焼きに行くことだけは続けていました。今思うと、あの時間が私と現実とをつなぎ止めてくれていたのです。

少しずつ気持ちが落ち着いてきたころ、地元のパン屋に就職。広島では当時珍しかったフレンチ系のパン屋で、オーナーはフランスから帰国して店を始めたシェフでした。そこで働き始めた初日に言われたのが、後の私の人生を大きく変えるきっかけにもなった、「パン作りを続けるなら、一度はフランスに行かないといけないよ」という言葉だったのです。

そのとき、私はフランスに行くなんて考えたこともありませんでした。かつての結婚生活の中では、海外に行くという発想自体がなかったのです。でもその言葉を聞いたとき、「そうか、パンをやるならフランスなのか」と、初めて海外に行くことを意識しました。永住しろという話ではなく、一度は見ておくべきだという意味でしたが、その言葉は私の中に強く残ったのです。そこからフランス語の勉強を始め、月に一度ほどのレッスンを受けて、少しずつ準備を進めました。そして1年後、35歳のときにパンに導かれるように、フランスへ向かうことになりました。

石川 芳美(いしかわ よしみ) プロフィール
1966年、東京都生まれ。広島県育ち。フランス在住のパン職人で、女性起業家、クリエーター、アーティストとしての顔も持つ。29歳からブーランジェとしてのキャリアをスタートさせ、子連れ可能なパン教室を広島に開校。口コミで人気となり、2校目を開校すると同時にベーカリーもオープン。その後、35歳で渡仏。数店舗での修業を経て、フランス人パティシエの夫・ロドルフとともに「メゾン ランドゥメンヌ」をオープン。2026年4月現在、グループ全体でフランスに36店舗、東京に3店舗を展開。

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