福士蒼汰が主演するフジテレビ系ドラマ『東京P.D. 警視庁広報2係』。これまで数多く制作されてきた“警察ドラマ”の中でも、知られざる「警視庁広報課」を舞台にした異色作であり、1月クールの地上波放送を終え、FOD独占配信のseason2も全6話がそろった。
「なぜseason2は地上波ではなく、配信という形を選んだのか?」その理由は、単に“地上波では扱いづらいセンセーショナルな題材だったから”だけではない。むしろその奥には、日本社会そのものへ踏み込もうとする、深淵のようなテーマ性と、作り手の強烈な覚悟が込められていた。
“地上波ではできない刺激的な題材”が武器のエンタメではない
本作を地上波のみで楽しんでいた視聴者にとって、その続編を有料配信プラットフォームに加入してまで観る価値があるのか?というハードルは確かに存在するだろう。
しかし本作に関して、その価値の一つである“面白さ”への不安は、すでに地上波シリーズで払拭されているはずだ。となれば、視聴者が気になるのはただ一つ。本当に“配信でなければ描けない題材”だったのか?という点であろう。
season2のあらすじはこうだ。
選挙応援に訪れていた国家公安委員長が刺殺される事件が起き、犯人である青年は、「新生自尊の会」という“カルト”への復讐を動機として語る。さらに、その青年への取り調べが進む中、今度は警視庁の目と鼻の先で“バラバラ殺人”が発生する。国家を揺るがす政治家の刺殺事件と、市民が飛びつくセンセーショナルな事件が交錯していく中、広報官である主人公たちは、錯綜する情報を整理し、社会へどう伝えるべきかを迫られていく。そしてその先に、想像もしなかった真相が浮かび上がっていく――。
このあらすじを見れば、多くの視聴者は実際に起きた“あの事件”を想起するに違いない。そして、その動機にある“背景”を絡めた時点で、「これは地上波では扱いづらいだろう」という空気も自然と伝わってくる。
実際、視聴中も「もしこれが地上波で放送されていたら…」という考えが何度も頭をよぎる。さまざまな憶測や反発を呼び、放送局側にも少なからぬ軋轢(あつれき)や調整が生じていたに違いない。そんな“邪念”が、どうしてもかすめてしまうのだ。
そういう意味で、本作が扱ったテーマは極めてスリリングだった。
しかし、本作が本当に描きたかったものは、“地上波ではできない刺激的な題材”を武器にしたエンターテインメントでは決してない。
視聴者の認識が何度も何度も裏返されていく
もちろん、エンターテインメントではある。だが、その奥にあるのは、日本社会に沈殿する膿や闇、そして簡単には割り切れない“正義”の複雑さだった。
だからこそ序盤では、「ここまで踏み込むのか」という題材そのものに驚かされる。だが見進めるうちに、次第に別の怖さが立ち上がってくる。
それは、性的描写や過激な暴力、猟奇性に頼った作品ではないにもかかわらず、「なぜこれが地上波では難しいのか?」という現実そのものが、じわじわと恐ろしく感じられてくるからだ。何を描けば波風が立つのか?どこまでが“許される表現”なのか?そして、その線引きは誰が決めているのか?――本作は、そんなところにまで視聴者を考えさせてしまう。
とはいえ、だ。そうした“配信だからこそ可能だったのか?”というメタ的な視点や、“地上波でやるべきだったのではないか?”という議論すら、最終的には本作のもう一つの強みである、圧倒的な“面白さ”によって呑み込まれていく。
気づけば、「地上波か配信か?」などどうでもよくなっている。第1話を見始めてしまえば、最終話である第6話まで一気に見ずにはいられない。視聴者は完全に、エンターテインメントの渦へと引きずり込まれていくのだ。
“ある事件”をモチーフにしていることはすぐに察しがつくため、犯人の背景や動機については、ある程度予測できる。しかしそこへ、“バラバラ殺人”という、一見まったく無関係に見える事件が差し込まれることで、物語の深層は一気に混沌としていく。真実が見えたと思った瞬間、また別の事実が浮かび上がる。その連続によって、視聴者の認識は何度も何度も裏返されていくのだ。
そして、その混乱を描く視点が、“警察広報”であることがやはり秀逸だ。何を伝え、何を伝えないのか。どの情報を、どのタイミングで社会へ出すのか。捜査だけではなく、マスコミとの関係性や、世論との距離感まで含めて複合的に描かれており、その見応えはseason1以上と言っていい。

