いまから130年前の1896(明治29)年3月12日、小田原城を間近に望む神奈川県小田原市の早川口から、静岡県の有名温泉地・熱海までを結ぶ約25kmの鉄道が全通した(熱海~吉浜間の部分開業は前年7月)。この鉄道の動力は蒸気でも馬力でもなく、なんと人力だった。
この豆相(ずそう)人車鉄道の社長には、後に全国各地で軽便鉄道の路線を経営し、「軽便鉄道王」とも呼ばれた実業家の雨宮敬次郎(1846~1911年)が就任した。
今回の記事のテーマは、この人車鉄道にまつわる、ある「謎」の解明である。
なぜ人車鉄道が建設されたのか
本題の「謎」について明かす前に、なぜ小田原~熱海間に人車鉄道が建設されたのか、また人車鉄道とはどのようなものだったのか、簡単に説明しておくことにしよう。
まず、熱海は古くからの著名な温泉地であるにもかかわらず、当時は交通が非常に不便だった。というのも、東海道線は1872(明治5)年に新橋~横浜間が開通した後、1887(明治20)年に国府津まで、さらに1889(明治22)年には沼津・静岡方面へ延伸されたが、このときのルートは現在の御殿場線経由(国府津~山北~御殿場~沼津間)だったため、熱海は鉄道の主要ルートから外れてしまったのだ。
鉄道のなかった時代、小田原から熱海への交通手段は人力車だったが、当時の熱海街道は悪路だったため、その乗り心地は非常に悪かったという。
1882(明治15)年頃、肺結核を患った雨宮敬次郎(通称「雨敬」)が、療養のために医者の勧めで熱海へ出かけたところ、「人力車に乗つて揉まれた為めに尚更吐血」(回顧録『過去六十年事蹟』)した。そして、このときに「熱海に行く人は大概病人が多い、どう言ふ病気にしろ此道を人力で行くと病気を重らするのみである、(中略)軌道を敷いて人足に押させるのが一番宜いと言ふ念慮を起した」(同書)という。つまり、雨敬はこの吐血経験から、人車鉄道というものを思いついたというのだ。
人が押すなどいかにも原始的だが、機関車も馬も必要なく安上がりな人車鉄道は、それほどの需要が見込めないローカル線にはもってこいだと思われた。
こうして、交通が不便であることから鉄道を熱望する熱海の人々の思いと、雨敬のアイデアが結びつき、誕生したのが豆相人車鉄道だった、というのがよく語られる説明である。
だが、実際には1891(明治24)年、同じ静岡県内に藤枝焼津間軌道という人車鉄道が先行開業していたことがわかっており、人車鉄道が本当に雨敬のオリジナルのアイデアなのかは、疑問を差し挟む余地がありそうだ。
重大事故も発生していた
では、人車鉄道とは実際にはどのような乗り物だったのか。当時の旅行ガイドブック『東海東山畿内山陽漫遊案内』(増補版 明治31年発行)に、次のような記述がある。
「小田原の馬車鉄道停車場より七八町、早川橋のほとりに人車鉄道の乗車場及び荷物取扱所あり茲(ここ)より人車鉄道に乗れば米神、江ノ浦、城口、吉濱、門川口、伊豆山を経て三時間にして熱海に着す、此の人車鉄道といへるは近年開設せしものにして熱海に至る里程十六哩(マイル)半」
続いて、客車の形状や乗り心地などについても記されている。
「客車は下等八人、中等六人、上等四人を載すべき小形のものにして其道には軌篠(注 : レール)を設け人夫二人にて之を押し行く仕掛なれば通常の人力車の如く道の凸凹なるが為め車の動揺又は転覆すべき憂ひなく安全にして軽快、其の賃金は小田原、熱海間下等三十三銭、中等六十六銭、上等壹(いち)円、別に一車貸切の法もあり」
これだけを読めば非常に快適な乗り物のように思われるかもしれないが、実際には大変な代物だった。そもそも重たい木造の車両を車夫が押していくのは大変な重労働だったし、車幅が狭い割に背が高い車両を坂道でスピードが出た状態でコントロールするのは難しく、ときには重大事故も発生した。
1906(明治39)年8月29日付の横浜貿易新報(神奈川新聞の前身)には、「人車鉄道転覆」という見出しの記事が掲載されている。記事によると、江の浦付近の下り坂でコントロールが効かなくなった人車2台が脱線転覆し、重軽傷者7名を出す事故が発生したという。
これほどの重大事故は稀だっただろうが、脱線はしばしば発生したようである。一説によると、昔は根府川付近の海岸線に松林があったが、「脱線した人車が海まで転がり落ちないようにするために植えられていた」という話を地元の人から聞いたことがある。事実ならば、現在では考えられないような「安全対策」である。
大正天皇が人車にご乗車された可能性はあるのか
さて、ここからが今回の本題。人車鉄道にまつわる謎解きである。『静岡県鉄道物語』(静岡新聞社編 1981年刊行)という書籍に記された、下記の1文をまずはご覧いただきたい。小田原市早川に住む古老の思い出話として語られているエピソードだ。
「わしが一〇歳ぐらいのころ、大正天皇が皇太子のころだろう、熱海に出かけられ人車に乗られた。早川の駐在や多くの巡査が出て大さわぎだった。先頭の客車に警察官が乗り、三台目の客車に皇太子が乗られた」
書籍の刊行時、古老の年齢が87歳だったことから計算すると、1904(明治37)年頃のエピソードと考えられる。豆相人車鉄道は1907(明治40)年に動力変更され、機関車が牽引する軽便鉄道に生まれ変わるが、その前の出来事ということで、時代的には整合する。
だが、前述したように人車は脱線・転覆も起こるような「危険な乗り物」であり、そのような乗り物に「皇太子が実際にご乗車されたのか?」と疑問が湧くのだ。じつはこれが今回解き明かしたい「謎」なのである。そこで、大正天皇のご誕生から崩御までの日々の記録を編纂した『大正天皇実録 補訂版』(宮内省図書寮編纂)という資料を見ていくことにしよう。
まず、幼少期から虚弱だった皇太子(後の大正天皇)の避寒を目的として造営された熱海御用邸に、大正天皇が滞在されたのは次の3回(3年連続)だったことがわかった。いずれも人車鉄道開業前のことであり、熱海までの交通手段は人力車だった。
- 1回目 : 1889(明治22)年1月13日~2月23日(宝算11歳)
- 2回目 : 1890(明治23)年1月19日~2月15日(宝算12歳)
- 3回目 : 1891(明治24)年1月8日~3月1日(宝算13歳)
では、その後はというと、1893(明治26)年7月に沼津、翌年1月に葉山の御用邸が竣工すると、以後は沼津・葉山がおもな冬の避寒先となり、大正天皇が熱海に滞在された記録は見られなくなる。沼津駅や逗子駅(葉山は逗子駅から近い)がすでに開業しており、鉄道駅のない熱海と比べて移動が格段に便利だったことが理由と考えられる。
3つの可能性を探る
そうすると、前述した古老の思い出話は「間違いなのか?」ということになるが、鮮明な記憶として語られていることから、単なる記憶違いとも思えない。そこでいくつかの可能性を探ってみることにする。
【可能性1】熱海には滞在されずに人車にご乗車された?
可能性のひとつとして、熱海御用邸には滞在されずに、沿線を訪問した際に「ついでに」人車にご乗車されたことが考えられる。『大正天皇実録』をその視点で改めて読むと、
- 1901(明治34)年4月14日 : 葉山滞在中に日帰りで小田原へ行啓
- 1901(明治34)年5月6~21日 : 小田原御用邸に御淹留(えんりゅう=長期滞在すること)
との見出しの記事が見られる。だが、該当記事を丹念に読んでみても、残念ながら「人車に乗られた」との記述は見つからなかった。
【可能性2】人違いではないか?
2つ目の可能性として、大正天皇以外の別な人物(たとえば年齢の近い皇族)が人車に乗ったのを、古老が大正天皇と勘違いした可能性が考えられる。この観点で調べたところ、『元熱海御用邸沿革』(熱海町観光課編)という資料に、「有栖川宮殿下、東伏見宮殿下、久邇宮殿下、華頂宮殿下など各宮殿下が御用邸に成らせられました」との記述が見られる。
このうち、1879(明治12)年生まれの大正天皇とご年齢が近いのは、1873(明治6)年生まれの久邇宮邦彦(くによし)王、1875(明治8)年生まれの華頂宮博厚親王である。このお二方のいずれかと古老の記憶が混同された可能性も考えられるが、推測の域を出ない。
【可能性3】昭和天皇ではないか?
もうひとつ考えられるのが、大正天皇ではなく昭和天皇だったのではないかという可能性である。大正天皇と昭和天皇は親子であり、年齢が離れているため、古老が混同したとは考えづらいが、念のため検証してみよう。
まず、そもそも昭和天皇は熱海御用邸に滞在されているのだろうか。『昭和天皇実録』を調べると、1910(明治43)年12月22日に幼少期の裕仁親王(昭和天皇)が熱海御用邸へ赴いた記録がある。だが、このときはすでに人車鉄道から軽便鉄道に切り替わった後である。しかも軽便鉄道があるにもかかわらず、小田原から熱海まで人力車を利用されたと記されている。
さらに資料を見ていくと、昭和天皇に関する注目すべき別なエピソードが見つかった。1904(明治37)年7月8日、避暑のため箱根宮ノ下へ赴く裕仁親王が、箱根登山鉄道の前身である小田原電気鉄道(国府津~小田原~箱根湯本間)にご乗車された。その際、事故寸前の危ない場面に遭遇したという。
『明治小田原町誌 下』(小田原市立図書館編)によると、裕仁親王と雍仁親王(昭和天皇の弟。後の秩父宮殿下)、および供奉員が乗車した電車が、定刻より数分遅れて国府津駅を出発し、途中まで進んだ後、坂道を猛スピードで逆走したというのである。以下、筆者により現代仮名使い等に変換した上で引用する。
「十二時に国府津を出発し、湯本村前田橋よりおよそ一町半(注 : 約164m)の距離までに至りしに、同鉄道線路は屈曲の所には常に油を引き円滑ならしめしに、その油の自然に軌道に浸滲(しんさん)し、その為にわずかに車輪の後方に滑るや否や惰力をもって背進を始めたれば、早速に車の歯止をなしたれば車の運転は中止せしも、惰力は益々勢力を増加し非常の速力をもって逆進なしたれば、あるいは脱線をせざるやと気遣いたるも如何ともなすことあたわず進退きわまりしに……」
そこへ後続の電車が迫り、「あわや衝突か!」と思われたが、幸いにもぎりぎりのところでストップし、衝突は免れたという。周りにいた人々は、さぞ肝を冷やしたことだろう。
この「事件」で着目してほしいのが、その日付だ。1904(明治37)年の出来事であり、先ほどの古老のエピソードと一致する。しかも小田原電気鉄道は早川口を通っていたことから、早川に住んでいた古老は裕仁親王が乗車した電車が通過する様子を目撃した可能性がある。
「大正天皇」と「昭和天皇」、「人車鉄道」と「電車」と2つの食い違いがあるものの、一致点も多いのである。
さて、今回は人車鉄道にまつわる「謎」の解明を試みてきた。すでに100年以上も前の出来事であり、真相は闇の中ではあるものの、調べていくうちに興味深いエピソードにも遭遇した。歴史研究の醍醐味ではないだろうか。
なお、豆相人車鉄道は前述したように1907(明治40)年に軽便鉄道になった後、1923(大正12)年9月の関東大震災で壊滅的な被害を受け、翌年3月に全線廃止されている。この鉄道の歴史や廃線跡については、本誌記事や拙著『かながわ鉄道廃線紀行』(2024年10月刊)に詳述しているので、参考にしてほしい。







