【鎌倉 インタビュー】丸裸にされた泣塔は今後どうなる?切腹伝説の真相…

湘南モノレール湘南深沢駅から徒歩6分。約31.1haという広大な土地区画整理事業用地の片隅に、小高い丘がたたずんでいます。

今回は、丘の中腹に抱え込まれている泣塔(なきとう)を紹介。なぜこんな名前で呼ばれるようになったのでしょうか。

泣塔の伝承

鎌倉時代末期の1333年(元弘3年)5月18日、洲崎合戦(※)に敗れた赤橋守時(あかはしもりとき/北条守時)ら主従が、この地で切腹しました。

(※)洲崎合戦(すざきがっせん):赤橋守時が鎌倉へ攻め込んで来た新田義貞の部将・堀口貞満(さだみつ)を迎撃。一昼夜に65度もの突撃を繰り返す死闘が繰り広げられたと伝わります。

元弘ノ新田氏北条氏攻守ノ古戦場ナリ太平記云赤橋相模守守時ヲ大将トシ洲崎ノ敵二向ラル又云赤橋腹ヲ切ケレバ……

※『神奈川県皇国地誌 相模国鎌倉郡村誌』山崎村(鎌倉市)

それから23年の歳月が流れた1356年(文和5年)、守時主従はじめ滅亡した鎌倉幕府の武士たちを弔うため、石造の供養塔(現代の泣塔)が建立されたそうです。

この石塔を動かすと祟りがあると伝えられ、ある人は売却した際、不慮の死を遂げてしまいました。また石塔を青蓮寺(鎌倉市手広)へ移設した際、夜な夜な石塔から泣き声がしたとも、夢枕で泣いたとも言われます。

そんなことがあったため泣塔と呼ばれるようになり、元に戻されてからは、海軍工廠時代(戦前~戦中)も国鉄工場時代(戦後)もずっと現在地に安置されてきたのでした。

泣塔が丸裸に!その理由と今後のビジョンは?

永い歴史を通じて、地元民から畏敬の念をもって見守られてきた泣塔。しかし最近、泣塔の建つ丘の樹木が皆伐(すべて伐採)されました。

むき出しの痛々しい姿に、少なからぬ人々が心を痛めたのは言うまでもありません。鎌倉市は、泣塔をどのようにしていくつもりなのでしょうか。

その疑問と不安を解消するため、鎌倉市教育委員会・文化財課の鈴木様よりお話をうかがいました。以下にお話の内容をまとめたので、共有いたします。

なぜ泣塔の丘を皆伐したの?

鈴木さん:結論から言いますと、このままでは丘全体が崩壊してしまう危険があるからです。丘に生えている樹木の根がのびすぎて、地盤を割り崩してしまうようになりました。そこでやむなく樹木を伐採することで、根の成長を最小限に抑えました。ただし、これで問題解決とはなっていません。来年度以降、崩落防止工事のに向けて、根本的な対策を検討して参ります。

泣塔に施す防災工事とはどういうもの?

鈴木さん:みなさんがご心配されているような、例えば丘全体をコンクリートで固めてしまうなど、歴史的景観を損なうことは考えていません。具体的には今後の検討課題となりますが、保全手法としては逗子市まんだら堂やぐら群が参考となるでしょう。工事は見学者の安全確保を第一に、文化財としての価値保全や歴史的景観の維持を重視して参ります。

今後、泣塔はどうなるのでしょうか?

鈴木さん:歴史的景観を維持するため、石塔とやぐらを含む形で丘の適切な部分を保全していきます。見学の再開については、深沢地区土地区画整理事業等のスケジュールなどと合わせながら決定される予定です。これまで泣塔の保全に尽力されてきた市民団体などとも協調しながら、未来に受け継いでいきます。

まだ課題は残されているものの、泣塔がよりよい形で次世代へ受け継がれていくことを願ってやみません。

実は切腹伝説と無関係?泣塔に刻まれた文章を読み解く

鎌倉幕府の滅亡時に切腹した守時主従らを弔うために建立されたと伝わる泣塔ですが、実は切腹伝説と無関係である可能性が指摘されているようです。

願主行浄」預造立」石塔婆」各々檀那」現世安穏」後生善処」文和五年丙申」二月廿日」供養了

【読み】がんしゅのぎょうじょう(僧侶の名)」せきとうばのぞうりゅうをあずかる」おのおのだんな」げんせのあんのん」ごしょうのぜんしょ」ぶんなごねんひのえのさる」にがつのはつか」くようしおわんぬ

これは泣塔に刻まれた文章ですが、建立した当初の目的は、檀那(施主、出資者)たちが「現世で安穏に生活できるように」そして「死後に極楽浄土へ行けるように」ということでした。

江戸時代より前の史料や文献では、泣塔と切腹伝説を結びつける記述がないことから、切腹伝説については後世の創作と言えるでしょう。

そもそも切腹した武士たちの菩提を弔うために建立したのであれば、切腹より永い歳月を経てから始めたのは仕方がないとしても、せめて一般的に弔い上げとされる33回忌までは続けて行いたいところです。

とは言え、石塔を見た後世の人々が往時の鎌倉武士に思いを馳せ、石塔に新たな伝承を付け加えていった心情はわからないでもありません。

そうした仮託を受けた歴史も含め、泣塔はこれからも、人々から畏敬の念をもって愛され続けることでしょう。

泣塔の魅力3選

今回解説してくださった鈴木様は石造物の研究をされてきたそうで、泣塔の魅力を熱心に語ってくださり、知的な刺激に満ちたひとときとなりました。

ここではうかがったお話と資料を基に、ごく噛み砕いて紹介します。

南北朝時代の特徴的な造形

現在は安全のため立入禁止となっていますが、泣塔を近くで拝むと、永年の風雨にも損なわれないシャープなシルエットに心惹かれることでしょう。

泣塔のデザインからは、南北朝時代(鎌倉文化から室町文化への過渡期)におけるデザインの洗練化が垣間見られるので、機会があればしっかり観察するのがおすすめです。

一例としては、反り花(蓮の花を逆さに伏せた台座)が立体的かつリアルなデザインから、幾何学的デザインに変化していく過程などがわかりやすいでしょう。

鎌倉の外れにも及ぶ古都文化

泣塔が建っている深沢地域(中西部)は、いわゆる「三方を山に囲まれた」旧鎌倉地域(南東部)の外に位置しています。

ですから、玉縄地域(北西部)・大船地域(北部)と並んで「あそこは鎌倉じゃない」などとからかわれがちですが、そんな深沢にも古都文化はしっかりと根づいていました。

それを実感させてくれる泣塔は、地元民にとって誇らしさと郷土愛を高めてくれる存在と言えるでしょう。

いつの世も変わらぬ人々の願い

先ほど、泣塔が建立された当初の目的は「切腹した武士たちの供養ではない」と紹介しました。あくまでこの世とあの世における自分たちの利益ゆえに建立したのですが、これもまた泣塔が持つ魅力と言えます。

なぜなら現代を生きる私たちに「人間いつの世も、心から願うことはみな同じ」という歴史のつながりを感じさせてくれるからです。

崇高なだけではないし、低俗なばかりでもない。清濁併せ呑みながら生きていた先人たちの息吹を、数百年を越えて私たちに伝えてくれる泣塔は、末永く受け継ぐべき歴史遺産と言えるでしょう。

泣塔の基本データ

名称:石造宝篋印塔(文和五年銘)通称:泣塔、陣出(じんで)の泣塔材質:安山岩形状:高さ203.0cm指定:鎌倉市指定有形文化財-1971年(昭和46年)9月11日指定所在:鎌倉市寺分字上陣出所有:鎌倉市

まとめ

図はイメージであり、建物等の具体的な計画を示すものではありません。今後の検討によってイメージは変更となる可能性があります。

今回は鎌倉市寺分にある泣塔について、その伝承や魅力などを紹介してきました。取材にご協力くださった鈴木様はじめ、関係者各位に厚く御礼申し上げます。

深沢地区の整備事業にメドが立つまで、当分の間は自由に見学できません。中には無断で敷地内へ入ってしまう方もいるということでしたが、危険なのでご遠慮ください。

一日も早く泣塔が豊かな緑に包まれ、安全性・文化的価値・歴史的景観を確保することを願ってやみません。

これからも泣塔が末永く敬愛され、歴史遺産として受け継いでいけるかどうか、社会的な注目が集まっています。

泣塔

見学

現在は立ち入っての見学不可。フェンスの外からとなります。

アクセス

所在地:鎌倉市寺分11湘南モノレール「湘南深沢駅」から徒歩6分(450m)

連絡先

鎌倉市教育委員会 教育文化財部文化財課電話:0467-61-3857メール:bunkazai@city.kamakura.kanagawa.jp

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