ところで、この『もしがく』を語る上で、シェイクスピアはどうしても欠かせない存在だ。そこで今回は、「これを知れば、もっと『もしがく』が楽しめる!」というポイントを、豆知識として紹介したい。
まず久部である。以前のレビューでも触れたように、久部は『マクベス』のマクベスと『夏の夜の夢』のパックを合わせたような人物だが、では「WS劇場」は何に当たるのか。答えは、シェイクスピアが好んだ“魔法の舞台”だ。
『夏の夜の夢』の妖精の森は、「入った人間の価値観が変わり、恋も人生も書き換わる」力を持つ場所。『テンペスト』の島は、魔法によって登場人物の運命がねじ曲がる舞台装置のような空間。WS劇場も元はストリップ小屋だったが、いまやその“魔法”が発動しつつある。つまり久部は、“魔法の劇場で、混乱を生みつつ未来を導く男”として物語に立っているわけだ。
次にリカだ。ストリッパーだった彼女が、今話で「舞台女優も悪くない」と言い始めた、この変化こそシェイクスピア的王道である。現在WS劇場で上演されている『冬物語』で言えば、身分を越えて“舞台の側の人間”へ引き上げられるペルディータのような存在。演じることで人生が動き始める――リカは今、この物語で最も“魔法”を受けた人物なのだ。
そして今回、最も気になる存在、トロである。名前の響きからすると、『トロイラスとクレシダ』の青年トロイラスが元ネタだろう。トロイラスは純情で真っすぐ、恋に誠実な王子。一方『もしがく』のトロは、愛を口にしながら相手を売ろうとする悪党だ。この“真逆”はあえてかもしれない。三谷幸喜はオマージュ作品をパロディとして反転させる作風も持つ。そこから生まれるアイロニーの可能性も否めない。
ここからが面白い。トロは久部のおもちゃの銃――つまり「完全な虚構」による迫真の演技に圧倒され、心を動かされてしまう。これはシェイクスピアがよく描いた、「悪党が“舞台の真実”に飲まれ、芝居の世界に堕ちていく」瞬間の“変奏”だ。舞台の力で“正体を暴かれる、運命を変えられる”という構造は“シェイクスピアあるある”だからだ。
『マクベス』の夫婦が予言(=虚構)に飲まれるように。『ロミオとジュリエット』の若者たちが恋(=虚構のような熱狂)に身を投じるように。“舞台の力”は時に現実を飲み込む。トロは久部の虚構という名の魔法に飲まれ、「悪党から、舞台に堕ちる男」へと変貌しつつある。
ではもし、トロのリカへの想いが本当に純愛だったら? トロイラスは純愛ゆえに破滅する。同じ道をたどるなら、トロにも破滅の影が差すことになる。
一方で、彼の想いが“偽りの恋”のままだった場合は別だ。シェイクスピアには、『ロミオとジュリエット』のロミオの周囲にいる遊び人たちや、『オセロ』に登場する軽薄な男たちのように、「好きだよ」と言いながら平気でだます“偽ロマンス”の男が何人も出てくる。そしてそんな男たちが「自分も舞台に立てば何かが変わる」と勘違いし、虚構の世界に足を踏み入れてしまうのも、よくあることだ。
まとめれば、トロはトロイラスの“裏側”として配置されたキャラクターの可能性がある。つまり、彼自身が“悲劇を呼び寄せるトリガー”になりうる人物。久部の因縁の劇場「天上天下」へ向かったことで、どんな運命が引き寄せられるのか。
ナレーションは「WS劇場の閉鎖が迫っている」と告げた。これは、久部の“魔法の舞台”が限界を迎えつつあるサインでもある。『テンペスト』ではプロスペローが魔法を捨てた。『夏の夜の夢』では夜が明けると魔法が消えた。『冬物語』も“奇跡の時間”が終わる──。
果たして最終章で三谷幸喜は、シェイクスピアのどのモチーフを呼び寄せるのか。悲劇か、破滅か。それとも、あえて型破りの結末か。もしかして、そこにタイトルにある「楽屋」が……?
“ねじれ”と“パロディ”を自在に操る三谷作品だけに、未来は一寸先も見えない。ただ一つだけ確かなのは――第9話から、ますます目が離せなくなるということだ。



