東海道新幹線(東京~新大阪間552.6km)が開業したのは、1964(昭和39)年10月1日。間もなく開業60周年を迎える。開業翌年には、「ひかり」が東京~新大阪間をおよそ3時間で結んだ(開業時は4時間)。これは当時としては、まさに夢のような話であった。

  • 東海道新幹線は10月1日に開業60周年を迎える(写真はN700S。2023年10月の報道公開にて、編集部撮影)

東海道新幹線はどのようにして誕生したのか、3つの謎を解き明かしながら見ていくことにしよう。(文中敬称略)

戦前にも新幹線計画があった?

比較的広く知られていることかもしれないが、戦前にも新幹線計画があった。東京~下関間に東海道本線・山陽本線とは別に広軌新線(国際標準軌である軌間1,435mm)を敷設し、機関車(東京~静岡間および名古屋~姫路間は電気機関車、残りの区間は蒸気機関車)の牽引による列車を最高速度150km/h(将来的には200km/h)で走らせ、東京~大阪間を4時間半、東京~下関間を9時間で結ぶという、戦後の新幹線計画にも通じる革新的な計画だった。

計画の正式名称は「広軌新幹線計画」といったが、戦後の新幹線とまぎらわしいので、当記事では俗称である「弾丸列車」を用いる。この弾丸列車について語るには、明治の鉄道黎明期から延々と続いた狭軌・広軌論争に触れておかなければならない。

1872(明治5)年に1,067mmの狭軌でスタートした我が国の鉄道は、その後、西南戦争や日清・日露戦争を通じての軍事輸送の増大と重工業の発展にともない、鉄道の高速化・輸送力強化には広軌化が必要であるとの認識が強まった。

その流れの中で、大きな役割を果たしたのが、鉄道院工作部長・技監(技術畑の最高職)等を歴任し、広軌改築推進派の技術面における中心的人物だった島安次郎である。1917(大正6)年には、島らによって横浜線の原町田(現・町田)~橋本間に広軌線路が併設され、広軌化実現に向けての各種実験が行われるなどした。

ところが、その後、広軌化を進めるべしとする憲政会系(都市部を基盤)と、狭軌のままで地方未成線を整備するのが先決であるとする政友会(地方を基盤)が対立し、両派が政権交代を繰り返す中で政争の具に利用され、結局、実現を見なかった。

こうした状況に見切りをつけた島安次郎は鉄道院を去り、その後、南満州鉄道(満鉄)理事等の要職を歴任していたが、弾丸列車計画が浮上すると、計画を検討する鉄道幹線調査会の委員長に選出され、再び広軌化実現への道が開かれた。

当時、弾丸列車計画が持ち上がった背景としては、東海道本線・山陽本線の輸送が逼迫しつつあったところに、1931(昭和6)年の満州事変勃発(翌年、満州国建国)、1937(昭和12)年の盧溝橋事件から日中戦争への突入という流れの中で、東京~下関間、さらに朝鮮半島・満州への一貫輸送が重視されるようになったことが挙げられる。

  • 南満州鉄道の「あじあ」号を牽引するパシナ型蒸気機関車(public domain)

さらに、満鉄では1934(昭和9)年11月から大連~新京(現・長春)間を結ぶ超特急「あじあ」号が最高速度130km/h(表定速度82.5km/h)で運転開始(1935年に運転区間をハルビンまで延長)し、日本本国の特急「燕」の最高速度95km/h(表定速度69.6km/h)を大きく上回ったことから、広軌鉄道の優位性が意識されたこともあった。

こうして弾丸列車計画は、1940(昭和15)年3月、第75回帝国議会で予算通過後(15カ年継続計画、総額約5億5,610万円)、戦時下のため、かなり強引に用地買収が進められ、新丹那トンネル(小田原~三島間)、日本坂トンネル(静岡~浜松間)、新東山トンネル(名古屋~京都間)の各トンネルで掘削工事が進められた。しかし、その後の戦況の悪化により、工事資材および要員の確保が難しくなり、計画は中止のやむなきに至った。

弾丸列車計画それ自体は頓挫したものの、「この計画の内容、とりわけ東京-大阪間はほんの一部を除いて、戦後の新幹線とそっくり同じ」(『新幹線を航空機に変えた男たち 超高速化50年の奇跡』前間孝則)であったことから、戦後の東海道新幹線建設でその資産が大いに役立つことになる。

具体的には、新丹那トンネル、日本坂トンネルが東海道新幹線のトンネルとして利用されたほか、弾丸列車用に買収が完了していた用地(東京~大阪間515.4kmのうちの約95km分)を転用できたことから、東海道新幹線は、その計画の壮大さにもかかわらず、着工から5年半という短期間で建設が可能になった。

人的な面でも、島安次郎の長男で、蒸気機関車の名車D51形(デゴイチ)等の設計を手がけ、後に国鉄技師長として東海道新幹線計画を推進し、「新幹線の生みの親」ともいわれる島秀雄が弾丸列車計画に技術者として関与していた。

新幹線に飛行機の技術が使われた?

新幹線システムの完成までには、多くの人々がプロジェクトに携わった。中でも国鉄総裁として政治的な調整を一手に引き受けた十河(そごう)信二は、島秀雄とともに「新幹線の生みの親」というべき存在である。さらに、新幹線誕生に至る技術的な系譜の中で重要な役割を果たした人物として、三木忠直も忘れてはならない。

三木は1909(明治42)年12月15日生まれ、高松の出身。戦時中は海軍に勤務し、陸上爆撃機「銀河」や特攻兵器「桜花」などの設計を担当した。上意下達の軍隊にあって仕方のない事情があったにせよ、特攻兵器を開発したことについて三木は、「技術者魂として恥ずべき所産」「思い興す度に胸いたむ思いがする」と自責の念をその手記に綴っている。

戦後、三木は鉄道技術研究所(現・鉄道総合技術研究所)に入所する。「自動車関係は戦車関係、船は軍艦関係といったように何らかの形で兵器に関係している。兵器に関係しないものということで鉄道へ行くことにした」(三木)という。

当時の鉄研は、GHQから「航空禁止令」(航空機の研究・設計・製造を全面禁止)が出され、行き場を失った優秀な技術者たちを散逸させてはならないと、多くの旧陸海軍の航空技術者たちを受け入れていた。

  • 1953(昭和28)年10月17日付の朝日新聞記事

鉄研で三木は、飛行機の技術を鉄道に適用し、車両の軽量化・高速化を図る研究を進めた。その成果は、1953(昭和28)年10月17日付の新聞で、「国鉄快速列車の設計成る 軽く小さい流線型 東京・大阪間4時間45分」と発表された。内容を要約すると、次の通りとなる。

「1,340馬力のエンジンの付いた電気機関車が客車を牽引する方式で、車体を流線形・小型化し、台車を連接式にするとともに、外板をジュラルミン系の軽合金にするなどして軽量化。また、軽量車両が高速で走行しても横倒しにならないよう低重心にする。これにより、最高速度160km/h、平均速度125km/hと、当時の国鉄の最速列車だった特急『つばめ』の最高速度95km/h、平均速度69.2km/hを大幅に上回る」

重要なポイントは、国際標準軌(軌間1,435mm)ではなく、日本の在来線のほとんどで採用されている狭軌(1,067mm)のままで、上記のスピードを出せる点にある。つまり、実現可能性が非常に高いのだ。なお、車両の軽量化についての考え方は、三木の言葉をそのまま引用するのがわかりやすい。

「それまでの車両の構造は、だいたい建築を基本技術としてスタートしているわけです。サイドシルがあって、センターシルがあって、そして上の屋根のほうは木造というような構造の客車だった。けれども、飛行機の機体はモノコックなんですよ。全部を軽いスティールならスティールの板構造にして、全部で強度を持たせようという、そういう構造でやれば重さは半分になるじゃないかと」

この記事には、運輸省(当時)のほか、新宿~小田原間のスピードアップを図ろうとしていた小田急電鉄が目を留めた。当時、小田急は箱根観光の覇権をめぐって、西武系の駿豆鉄道(現・伊豆箱根鉄道)と激しく対立していた(箱根山戦争)。

小田急は特急用車両も順次投入していたが、特急需要の増大に鑑み、より斬新なコンセプトの高性能特急専用車両をつくろうという話が持ち上がった。そこで、三木の記事を見た小田急取締役の山本利三郎が、鉄研に車両の共同開発の協力を要請した。山本は国鉄出身で、スペインの連接車「タルゴ」に着想を得て、戦前から連接車の研究を行っており、戦後も小田急で高性能車の開発を進めた人物である。

当初、電気機関車による牽引方式だった三木の案は、小田急との話が進められる頃には、「将来の電気機器や駆動装置の改良発展を期待し」(『小田急3000形 SE車設計の追憶』三木忠直)動力分散方式の電車列車としてまとめられた。この案をもとに、1956(昭和31)年5月、8両編成電車案のロマンスカーSE車(3000形)の仕様が決定した。

  • 風洞試験に使われたモックアップ(国分寺市光町の新幹線資料館に展示)

SE車の開発には、航空機開発のノウハウが存分に発揮された。まず、従来は最高でも100km/h前後で走行する鉄道車両の場合、走行時に発生する空気抵抗はほとんど意識されなかったが(空気抵抗は速度の2乗に比例)、SE車の開発にあたって、航空機の設計では当たり前に行われていたモックアップ(模型)を使った風洞実験を実施し、空気抵抗を測定。車体先頭部の形状設計に生かされた。

車体構造には航空機と同様のモノコック構造を取り入れ、車体の材質には航空機の分野で戦前から使われていた軽合金の使用が検討された。だが、SE車の開発当時、軽合金は材料価格が高く、溶接技術も未熟だったために使用が見送られ、代わりに従来の車両よりも半分近い厚さ1.2mmの耐蝕鋼板を採用した。他にも、鉄道車両では初となるディスクブレーキを採用し、床板をハニカム構造にして軽量化を図るなど、飛行機開発の技術が随所に取り入れられた。

完成した車両のスピード試験は、小田急の線路は曲線が多いため国鉄東海道本線の線路を借りて行われた。1957(昭和32)年9月27日、函南~沼津間で145km/hを記録。狭軌鉄道における世界記録(当時)となった。

  • 小田急SE車試運転車両の前に立つ三木忠直(提供 : 三木忠直の次女・棚沢直子)

そのわずか2年後、1959(昭和34)年7月には、国鉄のビジネス特急「こだま」用車両(151系)が試験走行(東海道本線焼津~金谷間)で163km/hを出し、狭軌世界記録を塗り替えるなど、高速車両の開発は目覚ましい進歩を遂げた。こうした車両の開発手法・技術は、新幹線車両の開発においても生かされたのである。